ウオーキング歴20年、「おはようございます」と挨拶する人、しない人から想像の翼が広がった

赤い鶏頭とコキア

タイトルの間違いを訂正しました。

 

一日1万歩のウオーキングを20年間、ほぼ毎日続けている。

毎朝午前5時30分に出発して、朝は5~6千歩歩く。

夜明けが遅くなっているので、5時30分と言えば真っ暗だ。

日の出は午前6時を過ぎてからだ。

ウオーキング中、言葉を交わす人は3人から10人くらい。

今日は暗いところに雨が降っていたので、直接には誰にも会わなかった。

道路を隔てた向こう側に明るい懐中電灯を持ったご夫婦一組を見かけた。

私は小さなLEDの懐中電灯を持ち歩く。

懐中電灯も持って歩く人、歩かない人の割合は4:6で持って歩かない人の方が多いような気がする。

男女の比率は5:5くらい。

愛用の懐中電灯



懐中電灯を持つ意味は、自動車のライトと同じで、安全のためにここを歩いていると知らせる意味、と私は不審な者ではないと知らせる意味などがあると思う。

では、持たない意味はどうだろう。

持つことによって、私がここにいることを知らせることになる。

それが女性であれば危険を誘発することになると考えるのだろうかと想像を巡らせる。男性の場合は、多分、面倒くさいのだろう。

女性の場合でもそういう方がいないとも限らない。

しかし、何の予告もなしに突然、暗闇から人の姿が出てきた際、小心者の私は何度か声を上げかけた。

 

他人をびっくりさせないためにも、ぜひ、暗いところを歩くときは懐中電灯を持ってほしいと希望する。

晩秋のカンナ



また、ウオーキング中に、ウオーカーに出会ったときは、必ず私は

「こんにちは」

「おはようございます」

「今日暑いですねえ」などと声をかける。

できるだけ先に声をかけることにしているが、時々先着されることがある。

でも、先着された時の方がうれしい。

私と同じような思いをしている同志がいる、連帯感のようなものが伝わってうれしくなるのだ。

 

月に2,3人は、「おはようございます」と声をかけても、返事もせず、顔も動かさず、無視するように歩いて行く人がいる。

こうしたとき、人間だからムッとしてしまう。

けれど、病気なのかもしれないと思いなおす。

多分、私の中にも、礼儀としての形式だけの挨拶となっているところがあるのだろうと反省する。

 

時々、びっくりするような笑顔と明るい声であいさつされる方に出会うことがある。時々と言っても1年に一度あるかないかのことだけれど、そんな挨拶ができるとほとんどの人はつられてあいさつを交わしてくれるのだろうなと、本当の挨拶とは相手をその気にさせる挨拶なのかもしれないなあと型通りの未熟な自分の挨拶が気になる。

千日紅もまだ元気



だいぶ前に小学校では「知らない人に挨拶しないように」と指導しているところがあると聞いたことがある。

小学生も時代時代でその指導は変化しているようにも思う。

我々の子供のころは挨拶をしないことでよく𠮟られたことを思い出す。

ただ、最近は「おはよう」というと「おはようございます」と大きな声で返してくれるし、児童の方から大きな声で「おはようございます」と声を発してくれることがあるようになった。

指導の仕方がまた変化してきたのだろうかと思う。

 

やはり、子供はまずは挨拶が基本であることを教えることこそが教育であると老人は思いを深くする。

「知らない人には挨拶しない」を常套句にしてはならないのだけれど、そうしたことに類する事件も発生している中で、一方的に「知らない人には挨拶しない」と指導することを批判しても解決はしない。

生活の質を維持するためや人手不足などでほとんどの大人たちは働いている。

そうした保護者不在の中、安全と学習などを兼ねて学童保育が重視され、希望者が多くて学童保育に入れない児童も多く出ていると新聞で読んだ。

安全な社会でなくなっている放課後環境は学童保育によって守られるということなのだろうか。

子供たちの安全な環境が守られて初めて、「知らない人には挨拶しない」の常套句も廃語になるのだろうと思った。

ウオーキングでの「おはようございます」の挨拶から児童の挨拶、そして放課後学童保育まで想像の翼が広がった。

 

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