セクハラ、パワハラ、マタハラなど いろいろ経験しました 

ハラスメントもいろいろ

辞書によればハラスメントの定義とは、ひとに対する「嫌がらせ」や「いじめ」などの迷惑行為を指しますと明快だった。

私が働き始めた昭和40年代後半には、まだそのような言葉はなかったと思う。

調べてみると日本で初めてセクハラによる民事裁判が起こされたのは1989年というからちょうど、昭和から平成に移る頃で、時代の転換を予感させる言葉だったのかと今更思う。

 

当時私が異動した職場には、30歳前後の魅力的な女性がいた。

てきぱきとした仕事ぶりやきれいな言葉遣い、ひときわ目立つ目鼻立ちで際立っていた。上司はそばを通るときに、彼女の肩を揉んで会話を交わすのが日常のひとコマだった。初老の男が若い、30歳を少し回った女性の肩に手をかけて「凝っているね」などと会話している姿は、ちょっと慣れ慣れすぎる姿ではあると思ってはいた。

彼女は面と向かって嫌がっているそぶりは見せなかったが、私や主任が揃ったところでは不満を漏らしたことがあった。

 

私などは、その時代、まあ年寄りの元気回復行為かという程度の認識しかなかった。

彼女も肉感的なプロポーションでさりげなく胸の谷間を意識した服装もしていて、他の職場の職員の中には用もないのに私のところにやってきて、時間をつぶす者もいた。

その意味では、私の立場も羨望されていたし、そんな彼女を見るだけでも役得だった。

鮮やかなオキザリスの花



昭和時代のセクハラの多くは、その程度の類ではなかったかと思う。

確かにセクハラが進んで、二人だけの関係になり、それが不倫関係から刃傷沙汰に及ぶというという事件はいずこの時代でも変わりはない。

変わったのは倫理観の壁が一段も二段も高くなっていることに気づかずに、やってはいけなくなったことを繰り返してしまって、処分を受ける羽目に至ったケースもかなりあった。

 

ただし、ジャニーズの喜多川の行為などはセクハラという範疇を超えた犯罪的行為で論外だ。

また松本人志のホテル事件は、著名なお笑い芸人とのホテルでの小さな集まりに参加し、身近なお笑い芸を鑑賞したかったのか、それとも何かを期待したり、予感しながら参加したのか、いずれにしても純粋に寄席を見るような気持ちだけではなかったのではないかと、ゲスの勘繰りを働かせてしまう。

 

黄色いペチコート水仙


次にパワハラである。

パワハラという言葉が認知されるようになったのは、セクハラよりも遅く、2001年(平成13年)に登場した和製英語だとあった。

私が身近に見聞きするようになったのは、もう少し早く1990年代半ばだったように記憶している。

パワハラはどこにでも目にする事象だが、誰も彼もがパワハラをしているかというとそうではない。

というよりも、もともといじめや嫌がらせをするというパワハラ的体質を持っている人たちがいるのだ。

私が出会った、パワハラ被害者は、顔を正面に向けることができなくなった。

斜頸という診断書を提出して、数年間病休をとった。

パワハラを受けた部下たちの中には中途退職に至った者もいた。

今なら、労災認定になるのかもしれない。

 

それでも、そばにいて、なかなかかばうことはできないものだ。

当時は人事管理が徹底されておらず、むしろパワハラを発揮するものが出世したりしていた。

ただ、私が退職する頃には、そうしたパワハラ職員は干されるようになり、関連団体に転出させられて、ついには定年を待たずに退職したケースも見た。

今、組織でのパワハラ問題は職員管理の重要課題となっており、少なくなりつつあるが、旧態依然とした宝塚歌劇団や大相撲の世界、プロ野球でも楽天の安楽投手がパワハラが原因で自由契約となった。

今やパワハラは個人の問題はもとより、組織の問題として責任を問われる重大問題となっている。

ハナニラも咲いた



さて、最近私は、マタハラ、マリハラに類するような経験をした。

マタハラは職場での妊娠・出産・育児に関する嫌がらせと定義されており、ここでの話は正確な意味のマタハラではない。

それは親戚のお食事会だった。

私の姉と弟と連れ合いの6人と姉の娘夫婦4人、そして姪の息子夫婦2人の12人の会だった。

身近な気の置けない人たちの集まりで、和気あいあいと楽しい会だった。

そして、それぞれが近況報告などした。

 

私は、思い出話とともに、姪の若い夫婦に次の会には、「子供を連れてね」と言った。途端に、姉や二人の姪から大声で「もうやめて!それは言わないで!」と口々に怒鳴るように押しとどめられた。

いまでも、あれは何なんだったのだろうと思う。

想像するに、そもそも今の時代に「子供のいない夫婦に発してはいけない言葉なのよ」というのはわからないではないけれど、二人はまだ20代半ばだ。

親戚の爺さんが昭和時代よろしく、普通の挨拶言葉を発したつもりだったが、そういう言葉自体、タブーの言葉となっていたのだった。

石垣の下に咲くスノードロップ

もう一つは春のお彼岸の日に、妻の姪がお墓参りにやってきた。

彼女は30代の後半になっていて、親のすねをかじりながら、独身を謳歌している。

ざっくばらんな彼女に私は「○○ちゃんは結婚しないのか」とまた叱られるかもと思いながら単刀直入に問うた。

すると彼女は「結婚願望はあるよ」と素直に答えた。

とはいえ、私にあてがあるわけではなく、マッチングアプリのことなど話しながら我が家の、霊験あらたかな毎朝の仏前勤行に姪の良縁祈願をお願いすることを約束したのだった。「30代後半の○○ちゃんは結婚を希望しております。○○ちゃんに良縁が訪れますように」と毎日唱えている。

 

しかし、セクハラもパワハラもマタハラも、時代の変化とともに進行しており、時代の変化を見誤ってはとんでもないことにもなりかねないことはわかる。

こうした中で、判断の基準にすべきは、発した言葉が善意からなるものか、悪意からなるものかを見極めることではないかと思うのでした。

 

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