今年の2月、中学以来の友人が亡くなった。
私は学び子すべて千余名と校歌で歌った町の小学校出身(でもその小学校も、今では学び子すべて200名ほど)。
彼は、街から3~4キロ離れた地域にある旧村の小学校の出身だった。
中学に入学してクラスが一緒になり、ちょうど私の家の前を通って、自転車通学だったので、仲良しになった。
そのうち、毎日のように私の家で一休みして、4キロほどの道を帰って行った。
そのうち、時々泊まるようになり、いつの間にか入りびたりになることもあった。
彼は町の生活にあこがれていたのかもしれない。
当時は映画館が3館あった。
洋画専門、古い映画専門、新作映画専門館などジャンルに分かれていた。
映画館の特大のペンキ画に胸が躍った。
私の家から30メートルのところに偕楽座という映画館があって、映画の話をするとき、「かいらくざ」と言うと、皆「快楽座」というエロ映画専門館と勘違いして、ニヤニヤした。
スターの死は映画館の前を通るとき張り出され、墨痕の筆で知った。
「ゴーカート激突、赤木圭一郎死す」とか。
中井貴一の父親の佐田啓二が急死した時は、ちょうど有馬稲子と共演してかかっていた「危険旅行」だったと記憶している。
だが、このブログを書くにあたって調べたら、危険旅行という作品はなく、「集金旅行」だった。
相手役は有馬稲子ではなく、岡田茉莉子だった。
それも、亡くなる7年も前の作品だったが、当時の日本の田舎町の新作映画なんて、初めて上映するという意味だったのかと今更になって、理解した。
本題に戻る。
その友人は、我が家に泊まった翌朝、「〇君、そこの豆腐屋で豆腐1丁ね」と私の母から鍋を渡されて豆腐を買いに行ったと、嬉しそうに話した。
田舎の子供にとって、そんな生活は新鮮だったに違いない。
ただ、私の魂胆は別のところにあった。
彼と一緒の小学校から来た可愛い女生徒と同じクラスになり、淡い恋心を抱いてしまったのだ。
彼なら私が知らない彼女のことを教えてくれるかもしれないというささやかな魂胆だったけれど、お互い照れ屋の二人の間でそんな話を口に出すこともできずに、3年間は過ぎてしまった。
中学を卒業すると、彼は別の街にできた工業高校に進学した。
ただ、彼は、春・夏・冬の休暇で帰宅する途中にはいつも寄ってくれた。
中学時代に、いつの間にか同級生の女の子に恋心を抱き、高校に進学して、帰郷するとき、駅前にあった彼女の家に寄り、いつの間にか彼女の両親や兄弟の心のうちに入り込んで結局彼女をゲットしてしまった。
あの寡黙で、口下手な男が、しっかりして明るく、チャーミングな彼女をどのようにしてゲットできたのだろうかと不思議な気持ちだったが、高校を卒業して20歳になるとすぐに結婚した。
その後も、大阪万博に誘われて、彼の運転する会社のぼろ車に便乗し、広島、岡山から国道2号線を往復した。
まだ、高速道路はなかった。
万博会場のゲートにいると万博の警備員のアルバイトをしていたガキ大将のKが警備員姿で出てきた。
我々は万博会場に入ることもなく、大阪市内を猛スピードでカーチェイスのように疾走した。
これはもう死ぬかもしれないという世界に突然放り込まれたようだったが、悪運強し。
私はいまだに生きている。
10年以上前から男女10数人で幼馴染会を結成し、一泊二日の交流会を続けている。
コロナ禍に入る前から、彼の大腸がん手術や転移がんのことなど聞くことが多かった。
ただ、時折会うといつもお酒の話をして、お互い酒を酌み交わしたが、口数はめっきり少なくなっていた。
コロナ禍のなかで、入退院を繰り返していて、少し落ち着いたら顔を見に行こうと仲間とも話をしていた。
今年の1月、別の友人から、彼が相当悪い状態だと聞いたと連絡があった。
「入院しているかもしれない、どんな状態か聞いてみてくれ」と友人は言った。
入院していては電話もなあと思い、手紙を書いた。
そうしたら、彼から直接電話がかかってきた。
「今、入院してリハビリしている。
腰の複雑骨折よ。
心配ない、心配ない。
落ち着いたら飲みに来いや」
と昔通りの元気な声の広島弁だった。
楽天家の私は連絡してきた友人に、
「腰の複雑骨折と言うとった。
リハビリ中と言うとったから心配するようなことはないよ」
と伝えた。
2月の初め、彼からお酒を送ってきた。
山口県の銘酒「獺祭」だった。
「退院したんだな、元気になったんだな、いつ頃、快気祝いに行くかな」という軽い気持ちで電話した。
携帯電話に奥さんが出た。
いつもは私のことを○○君と呼ぶのに、今日は
「○○さん、主人がさっき亡くなったんよ」
と落ち着いた口調で言った。
「退院して元気でいるもんとばかり思って、快気祝いに行く日を相談しようと思って」
と私はつぶやくように言った。
奥さんの△美ちゃんは
「私も亡くなるなんて思ってもいなかったんよ。
すぐそばにいるのに、気が付いたら亡くなっていたんよ。
何にも言わずに逝ってしまったんよ」
と無念の気持ちを話した。
私は
「いやあ、心から大好きだった△美ちゃんの傍に帰って、安心して逝ったんよ。
幸せだったと思うよ」
と本当にそう思いながら伝えた。
結局、酒を酌み交わすことは二度とできなくなった。
けれど、今月末の幼馴染会では、彼が送ってくれた「獺祭」を提げて行き、思い出を語ろうと思っている。
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