お酒を飲んで60年 思い出に残る恩師のこと

お酒が進むタイの子


現在75歳。

今年76歳になるので、お酒が許される年齢とあわないではないかと指摘されるかもしれない。

 

そうなんです。

もう60年前のことだから、許されるだろうと思い白状します。

田舎のちいさな町の中学生は3年生になるころにはお祭り、クリスマス、お正月などの行事がくると、悪ガキがアルコール類やお菓子など持ち寄って宴会を繰り広げた。

 

高校生になって、近在に住む友人のところのお祭りに行った。

仲間5~6人一緒だった。

田舎の徳利は大きい。

お調子もんの私は勧められるままに飲んで酔いつぶれてしまった。

タニウツギはまだ咲き始め

次の日の朝、目が覚めて、頭痛、胃腸の不快感、心臓のドキドキ感、初めての二日酔いだった。

仲間に送られて朝帰りしたが、とても登校できずに休んだ。

 

布団をかぶっても眠れもせず、トイレを往復するなど体調は絶不調。

いつもは飲んだくれていた親父が、二日酔いの対処法をいろいろアドバイスしてくれた。

熱い風呂に入れ、熱いお茶がいい、柿は二日酔いに良いなどなど。

高校生が飲酒してというお小言はなかった。

でも、その時はもう二度とお酒は飲むまいと誓ったが、それは、無駄な誓いだったことは今が証明している。

 

3日ぶりに学校に行くと、担任ではない、数学の先生が近づいてきて「お前、二日酔いだったんか」と笑いながら訊いた。

私は曖昧にうつむいていた。

でも、お咎めは何もなかった。

ジャーマンアイリスだろうか



夏休みのある日、街の中でバッタリ担任に出会った。

先生が「○○よ、今日は嫁がいないんで、うちに来いよ」と誘ってくれた。

 

部屋に入ると「これを手伝って」と言われて、手に取った資料はクラスの採点一覧表だった。

どんな手伝いをしたのか忘れてしまったけれど、終わった後、先生はビールを抜いた。

私は何のためらいもなく、先生とビールを飲んだ。

今ではとんでもないことだけれど、当時はどうだったのだろうと時々思い出す。

でも、誰にも言わなかったから、多分、言ってはいけないことだとは思っていたのだと思う。

 

二年生になるとき、進学組の文系コースか理系コースのクラスを選択する。先生は文系を志望する私に、理系を選ぶよう強く勧めた。

自主性のない私は先生の言うままに理系コースを選択したら、先生が再び、担任になった。

結局、先生には3年間担任してもらった。

それで成果があったかと言うとそうでもなく、大学受験に失敗した私は、大阪に出て、新聞配達をしながら予備校に通った。

アヤメの群落

夏休みに先生が小学校に入る前くらいの息子を連れて、アパートを訪ねてくれた。

夜遅くまで話をした。

私は生まれてきた以上、忘れられたくない、歴史に名前を残したいと今では考えられないようなことを言った。

先生は何も言わなかったけれど、そんな考え方は笑止千万と言うように受け流された。

確かに私は幼かった。

 

翌年、大学に入学した私は、数人の仲間と先生のところを訪ねた。

その後10年くらいたって、突然先生の訃報を聞いた。

その年に先生を追悼するクラス会を開いた。久しく音信不通にしていた先生への感謝の気持ちが動いて、同級生に呼び掛けたのだった。

私は自分がなぜ、先生に目をかけていただいたのか、理解する想像力を持ち合わせていなかったが、今になって思うと、戦争後、苦学をしながら大学を卒業して、英語教師になった先生の境遇と私の境遇が似ていたのかもしれないと思う。

そして、なぜもっと話を聞いておかなかったのか、兄のように相談しなかったのかと今更になって思う。

 

先生は、私の高校に赴任してきたとき、戦争中、インドネシアで日本軍の少年兵だったと言っておられた。

単身赴任していたアパートに遊びに行くと、ギターを弾きながら田畑義夫の「帰り船」を歌ってくれた。

 

遠い日の思い出だ。

 

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