三度目の無言館展に行きました 岡山県瀬戸内市美術館にて

無言館展入口の掲示物 


6月28日、今日は10時30分過ぎに家を出て、カミさんと一緒に瀬戸内市美術館に行く。

現在開催中の無言館展を鑑賞する。

瀬戸内市立美術館はかつて交易などで賑わい、今は日本のエーゲ海としてオリーブ園とヨットハーバーで人気の瀬戸内市牛窓にある。

 

無言館展を鑑賞するのは、三度目になる。

 

最初は2006年か07年だったか、岡山駅西口の岡山市デジタルミュージアム(現シティミュージアム)で見た。

太平洋戦争に召集された戦没画学生の遺作展だった。

太平洋戦争に従軍した親に育てられた我々がまだ現役だった時代で、直接の戦争は知らずに育ったが、その影響は間接的に肌で知っている最後の世代であり、そうした人たちを多く集めた。

 

ちょうど首長が交代した時期で、新しい首長は、この美術館の在り方や名称などについて批判的だった。

私は、無言館展の開催は四国や山陰からも集客してにぎわったことや、中四国の結節点としてのターミナル都市としてこうした展覧会の開催の意味は大きいように思うと、やんわりと反論したことを覚えている。

 

会議が終わって、しばらくして、廊下ですれ違った美術館の職員だと名乗る職員が、美術館の存在を支持してもらったと感謝の言葉を述べた。

もう少し丁寧に対応してあげればよかったと時々思い出す。

私には照れもあったし、主張はしたけれど、首長への反論するような態度に後ろめたさもあったのだと思う。

でも、こうした話がすぐに庁内に流れていることに驚いた。

 

 


二度目は2012年、姉弟会で長野県を旅行した時に、本拠地上田市無言館に行った。

 

本拠地で買った画集と、今回の入館券

 

そして、今回が三度目だった。

 


瀬戸内市美術館は鄙にはまれな、きらりと光る企画展を開催して、隠れたファンが多い。

今回の巡回無言館展もロシアのウクライナ侵攻という暴挙が続く中で、戦争と人間というテーマを切り取ったグッドタイミングな企画だと思った。

ウイークデイ、車がないとなかなか行きにくい場所であり鑑賞者は決して多くはない。それでも、火曜日の昼時、常時40人ほどの入館者だった。

もちろん高齢者が圧倒的に多いのは仕方がないだろう。

入場料は800円だが、65歳以上は700円だった。

最近は高齢者割引サービスも少なくなったが、やはりうれしい。

 

さて、今回は展示物の撮影は禁止だった。

入口のあいさつ文は職員に聞くとOKということで、写真を撮らせてもらった。

先日のポンペイ展では撮影可だったのが懐かしい。

今回は90作品の展示だった。

瀬戸内市美術館は一階の外付けのエレベーターに乗り一気に4階まで行く。

扉には美術館のある牛窓の町のオリーブ園の風景などが描かれている。

4階が玄関になっている。

今回は4階と3階の会場だった。

瀬戸内市立美術館に向かうエレベーターの扉

内部には4階と3階の会場だけを往復するエレベーターもあった。

足腰の弱い高齢者のための仕様となっていた。

 

 

今日も母の教え(展覧会では全部を見ようとしても疲れるだけよという口癖)に従って、心に残る作品を選びながら鑑賞した。

 

まず、小野春男の内面の混沌を想像させる自画像に目が留まった。

 

小野春男は岡山県笠岡市出身の、近現代を代表する日本画家小野竹喬の長男だったことも惹きつけられた理由でもあった。

日本画とは異なるタッチで描かれた自画像を残した意味は深いように思われた。

 

それから興梠武「編みものする婦人」は奥さんの絵と思ったが、メッセージを読むと妹が編み物をする絵だった。

トップの写真の掲示物にとりあげられている。

妹への優しい愛情にあふれた絵が余計に時代の緊張感を投影していると思った。

 

そして、3枚目は市瀬文夫「裸婦」、やはりいくつになっても、女性の裸身は気になるものだ。

ただ、いわゆる豊満や優美などとはかけ離れた女性の裸像を描いていて、それはそれで時代の現実感を映し出しているのだと理解した。

 

そして我々は3階に降りた。

3階の会場に入る手前の視聴覚室ではNHK日曜美術館のビデオを放映していた。

10人くらいの人が見ていた。

我々も空いた席に座った。

 

その中で日高安典「裸婦」についての特別な思い出が語られていた。

あれ、これは展示室にあったものだと思ってしまった。

ビデオではそのモデルになった女性が50年後に無言館に来館し、感想ノートにしたためた感想を館主の窪島誠一郎氏が朗読していた。

その女性は戦没画家の恋人で裸婦のモデルとなった。

画家は戦死し、恋人は戦後も独身で、戦後50年後に自分を描いた絵と再会するというストーリーだった。

私は感激して、確認しようと再度展示室の絵の前に立ったが、ビデオの裸婦とは違う作者の絵だった。

まあ、その程度の平凡、愚鈍な私の鑑賞眼を再確認したのだった。

 

美術館を出たのはもう午後1時を回っていた。

 

スマホでイタリアレストラン・ロッサを見つけて、遅い昼食をとる。

 

ロッサ 入口


人気店のようで、順番待ちの記入表は2ページにも渡っていた。

流石に私たちが入ったときは、待っている人はなく、片付けますのでしばらくお待ちくださいと少しだけ待った。

店内は4人掛けテーブルが8席くらいあり、まだ4組くらいお客さんがいた。

 

ロッサ店内からの眺め


窓側の席から外はすぐ海で、300メートルくらい先にヨットハーバーがあった。

私たちは牛窓マッシュルームと黒ベーコンのマリナーラというパスタと、ピザマルゲリータをシェアして食べた。

 

写真は(rossaushimado.com)からお借りしました。


ゴロンと四つ切になったマッシュルームの歯触りが格別だった。

ソースも大変美味しかった。

コーヒーが付いて、二人で2600円とこれはお値段以上だ。

調度や小物類など、お店のセンスもいい。

海賊の宝石箱かと思ったら、砂糖入れだった。




牛窓に来たらまた行こうと思った。

 

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ポンペイ展に寄り道の旅(琵琶湖湖東の旅・番外編)

葉網と悲劇の仮面

東京組は米原で降りて、我々はそのまま在来線で京都に向かった。

私は京都で開催中のポンペイ展に寄るため京都駅で弟と別れた。

弟は先日すでに鑑賞していた。

 

この旅行中にいとこのMちゃんに、「元気があったら、帰りに京都でやっているポンペイ展をのぞこうと思っている」と話したら、「俺は現地で女房と見たよ」とさりげなく言った。

大企業を勤めあげた男の言葉だった。

 

 

開催中の京セラ美術館は地下鉄の駅から20分くらい歩くと弟に聞いたので、京都駅からは市内バスに乗った。

京都の街はコロナの感染が減少傾向に入って、Go Toの県民割、府民割が復活してきたからだろうか、大変な人出でにぎわっていた。

老いも若きも一斉に街に出ようという勢いがあった。

 

京都国立近代美術館前で下車、ぐるっと見渡すと道路を隔てた向かいに京都市京セラ美術館があった。

もう午後4時、急いで信号を渡って美術館に向かった。

荷物をロッカーに預ける。入場料は大人2000円。

平日の夕方ということでか、意外に入場者は少なかった。

 

子供の頃、東京でツタンカーメン展を見た。

夏休みに上京し、東京で働いていた姉に連れて行ってもらったが、長い、長い行列、ツタ王の黄金のマスクを鑑賞するのは押されながら、ベルトコンベヤーで流されていくようなものだった。

それに比べると今日は落ち着いて鑑賞できた。

 

それでもわが家の母の教えは

「美術館や博物館に行って、長い間、見ている人がいるけれど、そんなに見ても何にも残りやぁしないわよ。疲れるだけ。気に入ったのを二つか三つ、しっかりと見て帰ればいいのよ」だった。

私はほとんどこの言葉を実践している。

 

ポンペイは、約2000年前にイタリア、ナポリ近郊のヴェスヴィオス山の噴火で火山灰に飲み込まれたローマ帝国の都市。

埋没したポンペイの発掘は18世紀から始まり現在まで続いているという。

今回は発掘された遺物の名品の中から120点が展示されて「ポンペイ展の決定版」とあった。

首輪をつけた犬



ポンペイ展で私が気にいったひとつは首輪をつけた犬の絵だ。

舌を出して四肢を突っ張っているように見える。

耳も尻尾も立っていて、何かに向かって抵抗しているようで、実に写実的で、2000年前の生活はほとんど変わりなく現代に続いていると思った。

確かに機械文明は飛躍的に進化したけれど、生身の人間の実態は不変のようにも思えた。

 

特に塑像に見られる顔つきは、探せば現代社会にどこにでもいそうな顔つきである。

 

冒頭に写真をあげた「葉網と悲劇の仮面」という題名の、モザイクの仮面の男の何かを訴える表情にも現代に通じる迫力・主張を感じた。

 

また、展示物を鑑賞していたら多くの皆さんが展示物をスマホで撮っていた。

たくさんの場内スタッフがいたが、注意する様子はないし、もちろん撮影禁止の表示もないので、私も撮影させていただいた。

こんな特別展は初めての体験だった。

流石はイタリアンだと思った。

 

作品の一つ一つの価値の評価もさることながら、2000年前の生活実態を身近に見ながら、人間の本質はほとんど変わっていないのだろうなあと、プーチンウクライナ侵攻と比べながら思った。

帰りのバスは満員。京都駅まで立ちっぱなしだった。

 

午後8時過ぎ帰宅した。

カミさんは岡山県で最上級の千屋牛ロースの焼きしゃぶを用意して待ってくれていた。今夜もワインで乾杯。

 

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絶品うなぎを堪能しました(いとこ会男子部 琵琶湖湖東の旅最終日)

 

琵琶湖の虹


今朝は明るい日が差していたが、ウオーキングを始めたときは霧雨が降っていて少しの間、傘を差して歩いた。

ホテルから琵琶湖に沿って歩くと琵琶湖の湖上に大きな虹がかかっていた。

長浜城主だった豊臣秀吉を記念する豊公園(ほうこうえん)があり、再建された長浜城(歴史博物館)があった。

なかなか広い公園で一巡すると5000歩を優に超えていた。

豊公園

戻ってから、最上階にある大浴場に入る。

大浴場からは琵琶湖が望めるが、窓は外からの視線を遮るように施されているので風呂につかりながら琵琶湖を楽しむことができないのが惜しい。

それでも朝風呂の一人じめは何とも贅沢だ。

 

途中でHちゃんが入ってきた。

朝の入浴は午前6時から8時まで2時間しかないことを知って、そういえばBちゃんは昨夜、朝風呂に入ろうと言っていたことを思い出して、Hちゃんと入れ替わりに退出した。

部屋に帰りBちゃんに電話したが、まだ寝ているのだろう、電話は不通だった。

午前8時を過ぎてからBちゃんから電話がかかってきた。

大浴場の入浴は8時までだと知らせたが今更だった。

 

朝ごはんは各自でということだったが、今日は10時にチェックアウトし、予定している鯖ソーメンは10時30分からなので、早い昼食まで我慢することにした。

 

チェックアウトしてから徒歩で長浜駅ペデストリアンデッキを通って東口(伊吹口)に渡り、駅前商店街をぶらぶら歩いていく。

幹事に誘導されているので、道が全く覚えられない。

もっとも幹事も城下町特有の網の目状の道路網に右往左往している。

それでも10時30分過ぎ、今日のランチの予定の店の前に立った。

 

幹事のBちゃんは焼き鯖ソーメンにご執心だった。

私は内心、伝統あるいとこ会男子部の打ち上げが「えー、ソーメンかい?」と少し不満で、これまで計画倒れに終わっている「う・な・ぎ」と遠慮がちに主張してみたが、幹事は店の中に入って行った。

店に荷物を置かしてもらって、少し散策してからお昼を取ろうという目論見だったようだ。

お店の了承をもらったというので、幹事について入ると、お店の人は「お一人様かと思っていたら、5人様ですか、5人様は無理です。元々、荷物の預かりはしていませんので」と断られてしまった。

昨今のプライバシーのことを考慮するとお店の対応も当然のことだろうと思った。

 

幹事はそれならこのまま上がって、お昼にしようかという感じの雰囲気だったが、そこで声を発したのが、ご本家のMちゃんだった。

「外に黙食でお願いしますと書いてあったぜ。打ち上げが黙食じゃあなあ」と鋭い発言だった。

優柔不断ないとこ会男子部ではあるが、ご本家の発言は重いし、説得力があった。

ということで、幹事も流石に黙食では対抗できないと鯖ソーメンを断念した。

湖吟



そして、昨日満席だったうなぎ屋「湖吟」に向かった。

「湖吟」の開店は11時。

ジャスト11時に着いたが、まだ、のれんが出ていなかった。

店の中をのぞくと開店準備中、すぐにどうぞどうぞと招じ入れられて座敷に案内された。

 

皆、個室の和室に歓声を上げた。

「我々の打ち上げ式はこれでなくちゃ」と元気が出る。

幹事のBちゃんがメニューを持って、注文をとる。

マスク越しだが、美人の仲居さんは軽妙な対応、幹事の調子が上がって、二人の掛け合いが食事を期待させる。

白焼き



まずは白焼き(3800円)とかば焼き(3800円)を2枚ずつ注文した。

本番が来るのを待つ間に先付が出てきた。

仲居さんが「ひうお」と言った。

琵琶湖に生息する鮎の子で、店主が自ら獲ってきて、佃煮にするのだと言った。

辛すぎない、甘すぎない、ほど良い味付け、お酒が進む。

これをお土産にしようと尋ねると、売ってはいない、ここで食事をするお客さんだけに出しているという。鶏のから揚げが大好物のHちゃんはここでもから揚げを注文した。

 

白焼きとかば焼きが出てきた。

5人で取り分けて食べる。

とろける様な身の柔らかさとこだわりを主張しない、それでいて誰をも包んでくれるような深い味わいは、多分うなぎ嫌いな人でもうなぎが好きになってしまうだろうと思った。

それから合間にうざく(ウナギときゅうりの酢の物)やうなきもなどでお酒が進む。

生ビールと、日本酒はこの旅で愛飲した滋賀県富田酒造の七本槍、焼酎は本家Mちゃんお勧めの「明るい農村」といろいろ飲んだ。

鰻重



〆はもちろんうな重

といっても一人ひと箱とはいかにおいしくてももう食べられない。

でも、これだけおいしい鰻を食べると、もううな重は特上を食べるしかない。

うな重・特上(4400円)3箱注文。

 

特上はご飯の上部いっぱいにウナギが敷き詰められ、ご飯の中腹部にも敷き詰められているのだ。

このほんまもんのうな重を高齢者もよく食べた。

が流石に高齢者のおなかは満杯になった。

そして最後は幹事が責任を取った、というよりも役得で堂々と平らげた。

 

〆て44000円だったというが、おいしいものを食べて満足だった。

「湖吟」さんのうなぎには皆脱帽だった。

よい打ち上げができたと上機嫌で琵琶湖湖東の旅の打ち上げ式を終えた。

 

来年はいとこ会男子部の10回目となる記念の年だ。

皆、元気で迎えたいと誓って別れた。

 

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竹生島クルーズは暴風で欠航、代わりに向かった先は、、、(いとこ会男子部 琵琶湖湖東の旅二日目)

北國街道


月曜日 6時30分食堂に集合.

一番乗りで行ったが、もうすでに食堂には列ができていた。

今日は長浜に行き、午前9時発の琵琶湖竹生島クルーズに乗ることにしていた。

 

午前8時過ぎに今日の宿泊先の北琵琶湖ホテルグラツィエに到着。

北琵琶湖ホテルグラツィエ玄関

とりあえず荷物を預けて、竹生島クルーズに乗船することをフロントの女性に告げると、今日の運行状況をお聞きしてみますと親切に言ってくれた。

9時前に、フロントから今日は欠航という連絡が入りましたと伝えてきた。

 

それから、本日の作戦会議となった。

温泉に入りに行く、カラオケに行く案など。

結局、レンタカーで自由自在に走り回るという案が出て一件落着。

運転は若い、といっても71歳だけどBちゃんと弟の二人がすることになり車を取りに行くことになった。

行くタクシー代はレンタカー会社が払ってくれるという。こうしたやり取りもホテル側が熱心に連絡を取ってくれた。

北琵琶湖ホテルグラツィエロビー

ここのホテルマンはとても親切丁寧で優しい。

テルマン教育が徹底されている。

ルームキー一つのやり取りでも両手に持って差し出してくれる。

ソファにかけていると、ホテルマンはフロアーに膝を折って会話をする。

それがいつも自然体だから嫌味がない。

ホテル自体も大変しっかりしたつくりで、優雅さと質実剛健さを備えていた。

最近ではあまり見なくなった、誠実で居心地の良いホテルだった。

 

さて、この旅行の最大の目的だった竹生島クルーズが欠航となり、急遽変更した一番手は長浜駅前にある長浜鉄道博物館

長浜鉄道博物館 なぜかD51

長浜は東海道線が神戸まで通じるまでの1882年(明治15年)~1889年(明治22年)7月の間は長浜~大津間を、琵琶湖を渡る鉄道連絡船が往来したとあった。

当時長浜は東京~京都の東西と敦賀~長浜以南の南北を結ぶ結節点として重要な位置を占めていたようだ。

 

確かに、長浜には都市規模以上の歴史・文化が残っていた。

その一つが大通寺だ。

大通寺 山門


大通寺は江戸時代初期に建立され、真宗大谷派の別院として知られているとあったが、大通寺山門の見事さに圧倒された。

ただ建立は江戸時代末期1841年で、その歴史は意外と新しかった。

創建は慶長7年(1602年)で本堂や大広間は伏見城の遺構とあったから古い。

 

今日のお昼は、当初の予定ではクルーズ船に乗って竹生島から湖西の今津にわたり鰻の名店で食べることにしていた。

レンタカーも借りたのでひとっ走りと思っていたが、風雨の中で湖西まで行くよりも、長浜にもあるだろうとうなぎの人気店を訪ねたが、予約で満席だった。

うろうろしていると行列の出来ている町中華があった。

誰かが「町中華もいいね。」とのたまった。

町中華だからお値段はリーズナブル。

ここで節約して夜に豪華にと誰もが思った。

ホワイト餃子



メニューは一番の売りのホワイト餃子2人前20個を頼み、イタリアン焼きそば、中華風焼きそばとビールを頼んだ。

ただ、ホワイト餃子は普通の餃子とはまったく違った餃子。

皮がぼてっと厚くて、その上、揚げているので熱々、心の準備がないままに口の中にほおり込んだので、口内の皮膚に火傷を負った。

5日経ってようやく収まった。

ひと言、「熱いですから注意してください」くらいは教えてほしいと思った。

いつもは饒舌な面々が黙々と食べていた。

弟がチョー安いラーメン380円を追加注文した。

小食の弟が食事の終わりになってラーメンを注文したことに驚いた。

皆が「おいしいかい」と尋ねたが、下を向いて顔をしかめていた。

お値段は食事とビール6~7本くらい飲んだか、7000円ちょっと、これは安かった。

支払いを済ませて、外に出た。

 

Hちゃんに何がうまかったと尋ねると、Hちゃんは「ビールがうまかった」と答えた。皆がどっと笑った。

 

それから木之本に向かった。

長浜市木之本町、ここも初めて訪れた。

琵琶湖湖東の町々はやはり歴史が奥深く残っていることに気づかされる。

雨で木之本町に予定変更したのは国宝という言葉にひかれたからだ。

木之本町に到着して、特に北国街道沿いに残る古い街並みや街道の通りの広さに驚いた。

 

散策しているとHちゃんがパン屋から出てきた。

声をかけるとHちゃんはこれを買いにここに来たと「サラダパン」と包装されたパンをみんなに配った。

サラダパン

有名な話題のパンだというけれど私は知らなかった。

パンの中にはマヨネーズと千切りにされた沢庵が入っているという。

パン好きのカミさんにお土産にしようと思った。

 

向源寺山門


次は、国宝「十一面観世音菩薩」を安置する向源寺に向かった。

拝観料500円。

お参りは我々以外にはなかった。

近所のおじいさん風の方がとつとつとした語りで説明してくれた。

向源寺 本堂

そのお話では、このような近くで国宝がみられるところはほかにないということと、この観世音菩薩は天平8年(約1250年前)聖武天皇の勅命により作られたというから大変古い。

そして、戦国時代織田と浅井の戦いの中で、寺が兵火に見舞われ焼失したとき、観世音菩薩像を地元民が運び出して、土中に埋めて焼失を免れ、以後、地元で秘仏として守ってきたという。

十一面観世音菩薩像は撮影不可なので写真を購入、その写真を載せました。
写真のブログ掲載は許可を頂いています。


決して信心深くはない我々5人組もこうした話を聞きながら、改めて十一面観世音菩薩像を眺めて、その優しく、凛々しい顔つきに見入った。

よいものを見せていただきました。

 

その後は、一路長浜市内に戻った。

若い二人が車を返しに行き、その間、年長の三人は今夜の居酒屋を探すことにした。

そぼ降る雨の中で期待に見合う居酒屋はなかなか見つからなかった。

そこに二人が帰ってきた。

レンタカーのお兄さんが送ってくれて、その道中においしいお店を聞いたところ、一押し店があるというので、もう予約してきたという。

季咲の料理 野菜のかき揚

お酒処「季咲」、まだ新しい感じの店構えだった。

お店の中もすっきりと清潔感があった。

お刺身盛り合わせは新鮮、ネタはどれもピカリと光っていた。

野菜のかき揚げ、若鳥のから揚げ、馬刺し等々、大変おいしい。

ビールとお酒もよく飲んだ。(食い意地のほうが先に立って、お料理のベストショットが撮れなくて残念)

観世音菩薩に似た美人のママさんの心のこもった対応がうれしい。

 

お代は25000円弱だったようだ。

ようだと書いたのは、ママさんが「これは受け取れません」と強い調子で言ったので何事かと思ったからだ。

事情を知ると大笑いだ。

 

幹事のBちゃんは25000円を出して「お釣りはいらないよ」と言ったつもりだったのだが、実は3万円を出していたのだ。

ママさんは高齢者から5000円のチップは取れない。

間違っているのだと直感したのだろう。

何と親切で思いやりを持っているのだろうと思った。

Bちゃんはいやいやと言いながらも、ママさんの言葉に従った。

それがリーズナブルだ。

 

本当にいいお店でいい思い出ができて満足感でいっぱいだった。

 

今夜も、こうした話を肴にして二次会をしたのは言うまでもない。

盛り上がって11時過ぎ解散。

 

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いとこ会男子部 三年ぶりに琵琶湖湖東を旅しました(一日目)

近江八幡 水郷巡り

6月5日 今日から三年ぶりにいとこ会男子部の旅である。

9回目になる。

三年前は五島列島3泊4日の旅を楽しんだ。↓

 

いとこ会男子部五島列島3泊4日の旅 - 退職老人 ここだけの話 (hatenablog.com)

 

集合は彦根駅

岡山に住む弟と一緒に12時前に到着。

東京組は12時過ぎに到着した。

コロナで3年間の蟄居謹慎だったけれど、人の賑わいはほとんど日常に戻りつつあるように感じた。

 

到着

改札口で待っていると東京組のMちゃん、Bちゃんが出てきた。

二人とも変わっていない。

Hちゃんはと問うと、後ろ後ろという。

待っているとHちゃんが杖を持ってとぼとぼと歩いて来たが杖に見えたのはビニール傘を杖代わりに歩いてきたのだった。

足腰がよほどに弱っているようだった。

我々はみんな70代になるが、子供の頃の呼び名で○○ちゃんと呼ぶ。

他人が聞いたら気持ち悪いだろうと思う。

 

すぐに彦根駅から彦根城まで歩く。

彦根城までは1キロほど、私は2度目の彦根城だった。

日曜日とは言え、まだコロナ禍の影響が色濃いものと思っていたが、ここでも人出の多さに驚いた。

やはり高齢者が6割くらいと目立った。

我々ももうすぐ後期高齢者に手が届く、れっきとした高齢者であるが、どうも自分のことは除いて、観察してしまう。

彦根城



国宝彦根城井伊直弼の居城。

幕末超強硬派の大老の城は硬派の城といってよい、威厳と主張を感じた。

 

天守への急階段



天守に上る急階段は現代の高齢者に対する配慮が足りなさすぎるという批判も受けかねないほど屹立している。

いざ戦いとなれば、敵の攻撃を遮る構えなのだということは容易に理解できるのだが、平時にしか生きたことのない我々高齢者は不平たらたらに三層の天守を巡った。

もちろんしっかりした手すりが両サイドに設置されているが、何分にも階段が急すぎて、我らがH君は危険を察知して、早々とリタイアした。

 

お昼は伊吹そばつる亀庵で私は大根おろしそばを注文した。

赤こんにゃく、近江牛すじ煮込み、ビール中瓶、日本酒などいただく。

 

それから電車で近江八幡に向かった。

 

琵琶湖につながる水郷巡りだ。

高齢の船頭さんのゆったりした艪捌き、寡黙な語りがよい。

 

風に揺らぐ葦の先端に止まっているのがヨシキリ、葦のそばでじっと水郷の水面を見つめているのがアオサギ、水面を潜ったり顔を出したりしているのがカイツブリだと教えてくれた。

葦とアオサギ

5人貸し切りの和船でのんびりと90分間を楽しんだ。

 

夜は近江牛を食べる。

近江牛専門店・ティファニー2階の和室個室。

しゃぶしゃぶ2人前、すき焼き2人前、ロースステーキ1人前、身内ばかりだから一緒に食べるのがいい。

私的にはしゃぶしゃぶがおいしかった。

近江牛 糸こんにゃくが赤いのが近江八幡らしい

 

今夜の話題は我々の曽祖父のこと。

曽祖父は明治時代警視庁の巡査だったことは父母から聞いていたが、そのことについて、本家筋にあたるMちゃんから以前、曽祖父は朝鮮国の官吏だった金玉均が朝鮮政府の転覆事件に失敗して日本に亡命し、日本国内を転々としていた時、小笠原諸島にも渡ったが、その際、曽祖父は金玉均の護衛の一員として小笠原に随伴したようだ。

その時に金玉均から自筆の書をもらって今もあるという話を聞いた。

そのため、雑誌の編集長をしている弟のYが国会図書館にあった当時の警視庁所轄署関係の職員名簿を調べて曽祖父の名前を確認したと名簿のコピーを配った。

 

ひ孫たちは感慨にふけって名簿を眺めた。それは明治10年の名簿だった。

弟によれば、それ以降名簿記載の方法が変わり、下級官吏の名簿記載がなくなったため、いまのところ、曽祖父がいつまで警察官として在籍していたのかはわからないということだった。

そして、曾祖父母から祖父母、おじおば、いとこ、甥、姪と話は尽きなかった。

 

その時、Hちゃんの携帯電話が鳴った。

義兄からの電話のようだった。

80代の義兄夫婦の老いの生活の不安な様子をそばで聞く年下のいとこ達。会話を聞きながら、Bちゃんは涙ぐんでいた。

心優しいいいやつだ。

我々も直に、そんな不安な老後を迎えるのだと思った。

 

ホテルに戻ってからHちゃんの部屋で二次会。10時過ぎに解散。

 

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三年ぶりの東京千葉方面への旅(最終日)

東京グリーンパレス 写真はホームページよりお借りしました。


ブログ三日目は昨日の東京到着から始まります。

 

今夜の泊まりは現役時代、よく泊まった麴町の東京グリーンパレス。

午後7時前に着いた。

今日は高齢者には少し強行軍でくたびれた。

ホテルの外には出ず、ホテルのレストランでの夕食となった。

 

シャワーを浴びてから地下レストラン・ジャルダンに行く。

おばあさんとやや年下と思われる女性が食事をしていたが、ほかには誰もいなかった。連日の食べ過ぎ、飲み過ぎで今日は控えめにピッツア・マルゲリータ、パスタ、シーザサラダ、ただ赤ワインをボトルで頼んだ。

結構おいしく食べて満足した。

少し足りずにおつまみと日本酒の晩酌セットも追加した。

最近は何処に行ってもまずいものはなくなった。

 

食事をしていると、高齢の男性が入ってきて食事をしていた。

常連のようで今日は酒はいらないと言っていた。

ホテルの夕食時のレストランに客が3組とは、これもコロナ禍の影響だろうが、つくづく大変だろうなと同情心が湧いてきた。

店の出がけに、これから食事をするお客が二組入って行った。

他人事ながら少しほっとした。

番町の森と一帯の歩道



水曜日 今日も午前5時過ぎに起きて、麹町界隈をウオーキング

東京グリーンパレスは現役時代から10回と言わず使ってきたホテルだが、とにかくこの辺は同じような小道が縦横無尽につながっていて、未だにしっかり頭に入っていない。今日はサントリー美術館で大英美術館から里帰りした葛飾北斎展に行くことにしている。

先に鑑賞した弟によれば、地下鉄半蔵門線青山一丁目大江戸線に乗り換え六本木下車と言うコースになるというので、まず半蔵門線半蔵門駅を私の記憶に従い歩いて行った。

私の記憶ではダイヤモンドホテルに泊まった時にすぐ近くに半蔵門駅があったことを覚えていて、そのように歩いたつもりだったが、東郷平八郎記念公園に出てきた。

公園内に公衆トイレがあった。

東京に出てきていつも思うのはほとんどの公衆トイレが近代化され、きれいに清掃されていることだった。

さすがに首都だ。地方ではこうはいかない。

東郷公園のトイレ



ところで半蔵門駅には行きあたらず、市ヶ谷駅に出てきて、これは間違ったと市ヶ谷駅から宿のグリーパレス方向にいつも歩いた道を登って行った。

日本テレビの隣がグリーンパレス。

ただ、かって並んでいた日テレのビルはなく一帯は番町の森という公園に整備されていた。そのまま行くとグリーパレスに曲がる角にインド料理のアジャンタがある。

そして新宿通りに入る手前にウナギの秋本がある。

一度は入りたいと思っているがいまだに実現していない。

 

そのまま新宿通りを渡り、まっすぐ行くと何度か泊まったことがある都市センターが見えた。

このまま行くと赤坂のほうに行ってしまうので、これも違うなと再び、新宿通りに出て四谷と反対方向に歩いていくと、やっと半蔵門線の表示を見つけ、表示に沿って歩くと半蔵門駅の表示があった。

都会の小学校はまだ午前7時前というのに、すでに児童が登校して運動場で遊んでいる姿を見て驚いた。

半蔵門駅に行く途中にあった滝廉太郎居住地あとの碑



ホテルに帰りつくと今朝のウオーキングは7000歩を超えていた。

麹町界隈は、かってのお屋敷町の雰囲気が残り、そうした中で高級マンション、おしゃれなレストラン、老舗の料理店、学園街の喫茶店などいろんな表情があって楽しい。

 

午前9時前にチェックアウト。

下見をしていた半蔵門駅にカミさんを連れて歩く。

そして、弟に聞いた通りに青山一丁目大江戸線に乗り換え六本木には9時30分前に着いた。

 

サントリー美術館東京ミッドタウンの3階にある。

東京ミッドタウンは初めて来た。

調べてみると2007年3月30日開業したとあった。

施設の中核をなす超高層ビルミッドタウン・タワー」は、地下5階・地上54階・高さ248.1メートルで都内で最高層のビルとあった。

2007年と言えば私が退職した年だったから東京が遠くなっていく時代だけれど、でもそれから10年位は年間2回くらいは上京していたが、全く知らなかった。

 

サントリー美術館は午前10時開館。

10分前に美術館に行くと30人くらい並んでいた。

高齢者の中に若い人、中年の人もいらっしゃる。

やはり東京だと思った。

 

今回は姉弟による故義兄を偲ぶ会が主目的ではあるが、3年ぶりの姉弟会、3年ぶりの旅ということで、この際にいろいろと計画していた。

他に用もあり先行して上京した弟夫婦に、上京中の計画を聞くと大英美術館所蔵の葛飾北斎展に行くと言っていた。

それで、姉宅に集まったときにその様子を聞いた。

特に弟のカミさんは大興奮だった。

それで、私たちもせっかく上京したのだからと行くことを決めたのだった。

 

絵画に特に興味があるわけではないが、そうした雰囲気は嫌いではない。

倉敷市には日本初の私立西洋美術館、大原美術館がある。

よく、県外の友人たちに大原美術館を案内するときに私は「大原には教科書に取り上げられている多くの作品がある。親しみやすい美術館なんだ。」と説明している。

 

ただ、私の母は「展覧会なんて、気に入った二つか三つの作品を見て帰ればいいんよ。一つ一つしらみつぶしに見たってなんにも残こりゃあせんよ。疲れるだけよ。」と言っていたのを美術館に入るたびに思い出し、それを実践している。

 

カミさんの希望でイヤホンガイドを借りた。カミさんによれば、今回のイヤホンガイドは田中泯が担当しているが、それはちょっと凝り過ぎではないかとのことだった。

イヤホンガイドが主役になっては鑑賞の邪魔になる。

展覧会場で撮影許可された神奈川沖浪裏は観客が多く上手く撮れなかった

さて、そういう意味で取り上げた私の2点は、「神奈川沖浪裏」と「滝に鯉」だ。

「神奈川沖浪裏」は写真撮影が許可されていた一点。

二日目のブログに書いた大山寺のパンフレットの中に、「波の伊八」は多くの躍動感に満ちた波を彫っており、その波は葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」に影響を与えたとあったことから、その影響を見てみたいと思ったのだ。

しかし、伊八の波の彫刻はいすみ市の行元寺の欄間に残されているということで、私自身は目の当たりにしていないのでわからない。

ただ、葛飾北斎と波の伊八は江戸時代の同時代人で、千葉にも再三出かけていて、直接伊八と会ったという記録はないが、寺などに飾られた伊八の作品は目にしていたのではないかという推察はそれほど不合理ではないだろう。

滝に鯉 葛飾北斎 – 花と動物 滝に鯉 [名品揃物浮世絵9 北斎IIより] - 600dpi | パブリックドメイン美術館よりお借りしました

そして私がひきつけられた「滝と鯉」、流れ落ちる滝の水に身を隠しながら滝を上る鯉と鯉の目力は大山寺に残る2体の龍の目力と通ずる迫力があった。

構図もデフォルメも大胆で相通ずるように思えて、魅せられたのだ。

葛飾北斎の構想力は誠に天才的だが、そのバックに波の伊八がいたことも確信できた。

因みに伊八は1751年(宝暦元年)生まれ、北斎は1760年(宝暦10年)生まれだ。

 

11時30分、サントリー美術館を後にした。

またしばらく東京ともお別れだ。

 

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三年ぶりの東京千葉方面への旅(二日目)

朝の太平洋



火曜日 朝5時前に起床。

旅先の朝の目覚めは早い。

5時過ぎにウオーキングに出かけた。

 

旅館を出て道路を挟んだ向かいが鴨川シーワールドの入り口だ。

目の前の道路は海岸に沿ってまっすぐに伸びる道路で、その直線は1キロ以上あるだろうか。

 

直線道路を歩いていると、姉二人と遭遇した。

鏡忍寺という寺が1.7キロ先にあるという案内版

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