1974年~75年のビル爆破事件の桐島聡容疑者が名乗り出て、そして亡くなった。
当時から交番や駅、理髪店などいろんな所へ重要指名手配犯の顔写真の一覧表が貼ってあった。
桐島容疑者のぎょろ目と黒縁の眼鏡をかけた顔は一度見たら忘れられない写真だった。
しかし、50年間日本社会の片隅で逃げ延び、臆することなく居酒屋やスナックに出入りして、人気者であったという。
私の大学時代は1967年から始まった。
特別奨学金8000円で暮らす苦学生で、アルバイトで生活費の不足を補った。
当時の地方の大学では学生運動への参加は一般学生にとって普通のことだった。
週末には学生自治会が主催するデモ行進が普通に行われ、いつも50人前後の学生が市内をデモ行進していた。
私はアルバイトの合間に時々参加していた。
クラス討議は政治の問題が中心だった。
それぞれ勝手な意見を言い合って、それが終わると反戦歌やフォークを歌った。
10.8羽田闘争には学生自治会の呼びかけでクラスから代表を送ろうということになった。
出しゃばりの私は、ロハで東京へ行けると代表団の一員として気軽に上京した。
どのようないきさつで選ばれたのかは覚えていない。
1967年10月7日夜行列車で上京した。
午前7時頃東京駅に到着した。
東京駅についてから朝食はどうしたのか、どのように羽田に行ったのか全く覚えていないが、羽田空港に向かう道路上に到着して、続々とデモ隊が集まってくるのを座り込んで待ったことは覚えている。
そして、当時の国鉄の動労の青い菜っ葉服の一団がゲバ棒を担いでやってきて、ゲバ棒踊りをしながら気勢を挙げた。
身震いするような力強さが伝わってきた。
初めてゲバ棒がデモ隊に登場したと聞いた。
長い間、座り込みをして待っていた。
突然、喚声が湧きおこり、デモ隊は前方に駆け出して行った。
と同時に、私の周りの者たちが、石を手にして投げ始めた。
私はその場で立ち尽くして、その光景を見物人のように眺めるだけだった。
ここから石を投げても、とても機動隊に届くようには思えなかった。
むしろ、デモ隊の誰かにあたるだろうと思ったのだ。
どのくらい、その場にいたのか覚えていない。
ただ、今日の総括集会があるからと付いて行ったのが慶応大学の三田校舎だった。
もう夕暮れになっていた。
一緒に上京した仲間たちはみんな黙りこんで帰った。
デモ隊に参加した学生の一人が亡くなっていた。
68年1月米空母エンタープライズの佐世保港入港をめぐって阻止闘争が活発化した。我々の大学からも2台のバスが夜出発した。
私はすでに、学生運動に冷めてしまっていたが、羽田に行った関係から見送りに行った。
学生運動はどんどん過激化して行く予兆を感じていた。
日大闘争、東大闘争から大学紛争は全国の大学に燎原の火のごとく広がって行った。
私の大学でも自衛隊や警察車両の大学菅理道路の通行をめぐって、紛争が起こり、この道路の通行を阻止するバリケードを築いたことから長い闘争が始まった。
そして、学長を含めた大学当局の管理者との団体交渉が繰りかえされ、各学部で無期限ストライキに突入した。
今になって振り返ってみると、大学に入学を許された学生が授業をボイコットしてストライキをするということが当然に許された社会では、どういう理論構成で行われたのか、今更ではあるが不思議に思う。
こうした状況の中で、私は学生食堂で午後5時から8時まで皿洗いの長期アルバイトをしていた。
そのアルバイト仲間にN君がいた。
柔和な表情で、ハンサムな青年だった。
大人しくて、挨拶以外の言葉は交わしたことはなかった。
6人くらいのアルバイト学生がいた。
私が一番の長期アルバイト学生だった。
「最近、N君の姿を見ないなあ」と話していての72年2月のある日の朝刊を開いてびっくりした。
N君が、連合赤軍が起こした山岳ベースリンチ殺人事件で殺されていたのだった。
どこで、どう連合赤軍につながったのかわからないが、確かにその人物は隣で一緒に働いていたN君だった。
そして、1970年代の日本の極左暴力集団である東アジア反日武装戦線のメンバーの一員として、桐島聡容疑者が引き起こした事件は75年2月28日間組本社ビル爆破事件など3件の爆破事件だった。
私はすでに社会人として就職していた。
あれから半世紀、桐島聡容疑者は死ぬ前に「最後は本名で迎えたい」と病院関係者に伝えたという。
何だ、この人生は、道を違えた人生を何度も悔やんだろうなと私は思った。
でも、あの当時ひとつ間違えば、抜き差しならぬところに入り込んで、引きずられるままに悔いの残る人生を歩んだかもしれないと思うのだった。
合掌
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