菅首相の「運・鈍・根」

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栗の実がもうこんなに。

昨年、家仕舞いをした実家に昔「運・鈍・根」の掛け軸があったことを思い出した。
清々しい、静謐な書体が人生を欲得の無い努力で励むことこそ肝要であると教えていて、私なりの教訓にしている。

一般的に「運・鈍・根」は成功の三条件として考えられている。
その一つは幸運に恵まれること。
二つ目は、才に走らず地道に努めること。
そして三つ目は根気よいことと言われる。

この三つの条件を菅首相に当てはめてみた。

菅首相秋田県出身で高校卒業後上京し、段ボール工場などで入学資金をためて2年遅れて1969年4月に法政大学法学部に入学したという。

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淡い色合いのフロックスが涼し気。



全共闘による東大安田講堂事件が1969年1月18日だから、いわゆる全共闘運動が最終章の時期に入学したので、菅さんは学生運動の洗礼からは距離が置けたのかもしれないし、学生運動というような青ちょろい思想などには関心はなかったかもしれない。
ただ、当時の法政大学は中核派などの学生運動の拠点でもあった。
そうした大学を当時の菅青年はどういう基準で選んだのか興味深い。

私は菅さんより2年ばかり早く入学し、地方の大学でアルバイトと奨学金での大学生活をしながら、ちょっとだけ学生運動の洗礼を受けた。

法政大学での修学は昼間の一部とも、夜間の二部ともいわれているようだが、菅さん自身は一部に在学したと書いているようだ。
でも、働きながらの修学は大変だったろうと想像する。

文芸春秋五月号で森功さんがー菅義偉「ファミリー」の研究ーの中で、菅首相の大学時代の友人から聞いた話を
「大学時代のヨシ(菅首相)は授業にもほとんど出ていませんでした。
本も一冊も読んでいませんでしたし、勉強をしている姿を見たことがありません。
テストのたびに私のノートを見せてあげ、試験に出てきそうなところを教えていました。」と紹介している。

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白花の芙蓉もいいものだ


菅さんは73年3月に法政大学を卒業し、一時は民間会社に就職したが、75年4月横浜を地盤とする自民党衆議院議員小此木彦三郎事務所に入ったという。
政治家を志して大学の就職課を通じて小此木衆議院議員の秘書になったという記述があったが、小此木事務所に入ったのは偶然だったようだ。
でも、この小此木との出会いこそが運命の瞬間、菅総理誕生の第一歩だったのだ。

当然、小此木事務所の秘書団の中では最末席8番目の秘書として住み込みながら、10年以上の秘書生活を送ったのだ。
そして、この秘書生活の中から政治家を取り巻く様々な人的ネットワークと繋がり、信頼を得て、1987年横浜市議会議員に当選するまでに至ったのだ。
普通の人なら、この辺で満足するのだが、菅さんの運と根性はここいらへんで満足するようなものではなかった。
というより、ひとたび上昇気流に乗った以上、運はどんどん向こうからやってくるのだろう。

仕えた小此木彦三郎衆議院議員は、建設大臣通産大臣を歴任1991年11月に亡くなった。
ウィキペディアによれば「横浜市政に大きな影響力を持っていた小此木氏の死後、当選回数わずか2回にもかかわらず、小此木の事実上の代役として、秘書時代に培った政財界の人脈を生かして辣腕を振るい、高秀秀信市長から人事案などの相談を頻繁に受けるなど「影の横浜市長」と呼ばれた。」とあった。
こうした生活の中からどんどん頭角を現していくのだ。

そして、1996年10月第41回衆議院議員総選挙自民党公認で出馬し、初当選した。
2006年9月第一次安倍内閣では当選回数わずか4回、衆議院議員11年あまりで総務大臣に就任した。
その後は安倍内閣で7年8か月に及ぶ官房長官を務めた後、安倍前首相の2度目の政権放り出しで、押し出されるように内閣総理大臣に就任し菅首相が誕生したのだ。

まるで、秀吉の天下取り(秀吉の幸運と能力には到底及ぶべきもないが)を見るようでもあり、菅さんの運と根性を思わずにいられない。

 

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秋海棠の花も秋を告げている



ただ、菅さんの運と根はわかるが、鈍はどうだろうと、わが鈍眼のまなこを見開いた。
そして、問題は何といっても菅さんの鈍なのだということに気が付いた。
菅さんはよく、発信力に問題があると言われる。当然だと思う。

ただ単に発信力という言葉では正確ではない。
人間としての言葉、歴史や学問に根差した言葉が全く足りないのだと思う。

例えば、官房長官時代に発した言葉だ。
戦中戦後の、沖縄の苦難な歴史や状況を訴えた沖縄県知事に対して「私は戦後生まれで、歴史を持ち出されても困る」と言い放った菅さんの言葉に唖然とする。

発信の問題ではない。
この鈍感さはなんだ。
運・鈍・根でいう『鈍』とはまったく異質な鈍感力なのだ。

先日来の日本国関係者のアフガン撤退でも菅首相や政権は大失態を演じているが、昨日の会見で菅首相は「最大の目標というのは、邦人を保護することでありました。
そういう意味ではよかったというふうに思っています」と述べたという。
日本人やアフガン人を含む500人以上の撤退救出に向かって、出国できたのは日本人唯一人だったことを受けてこの言葉しかないのか。

この貧困な鈍感力は絶望的だ。

 

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