思い出す父の言葉

ピンクの夾竹桃が夏の盛りを告げる



 

私の父は明治42年生まれ、西暦1909年だ。

生きていれば115歳だ。

因みに昭和の受験生は西暦と元号の関係を明治は67を足して西暦を数えた。

つまり、明治42年に+67を足すと1909年になるという勘定だ。

大正は11を足す。

母は大正3年生まれだから1914年ということだ。

因みに昭和22年生まれの私の西暦は25を足す。

すると1947年ということになる。

 

元号が変わる前年の西暦の末尾二けたを元号年に足すとその年の西暦年になるということを受験勉強の時に覚えた。

すると平成元年は1989年だから平成年に88を足すとその年の西暦年になる。

令和元年は2019年だから、令和年に18を足すと西暦年になるということだ。

試しに平成15年はというと15+88=2003年、令和4年は4+18=2022年ということになる。

話が大きくそれた。

名前のわからない赤い花



私の父は書生をし刻苦勉励しながら当時最難関と言われた陸士、海兵(海軍兵学校)、東大の3校のなかの陸軍士官学校に合格した。

航空士官学校教官の時には当時の東条英機首相の講義視察があり、お褒めの言葉をいただいたとよく話していた。

上海事変に参戦し、功4級金鵄勲章を受章している。

 

白いサルスベリの花


そして陸軍少佐として北海道の部隊長で終戦を迎えた。

戦後、数年は公職追放を受けた。

自衛隊の前身である警察予備隊の創立時には入隊の勧誘を受けたが、軍隊の組織に馴染まない、いわゆる宮仕えに懲り懲りした経験から応じなかったと聞いたことがあった。

 

父は食卓で晩酌をしながら子供たちによく、教訓めいた言葉を垂れた。

その一つが「いつまでもありと思うな親と金」という言葉だった。

父の常套句でもあった。

私は夕ご飯を食べながら子供心に苦笑しながら聞いていた。

はて、うちの家にお金なんかあるわけないだろうと。

でも年を取ってから、その言葉は父の軍人時代の安定した生活と戦後の混乱下での窮乏生活との落差の体験の中で身に染みた言葉だったのだと思った。

 

そして「○書いてチョン」という言葉もよく聞いた。

鮎川義介という事業家の言葉だと覚えている。

鮎川義介は日産自動車の創設者とあったが、戦前は貴族院議員、戦後は参議院議員もした政治家でもあった。

父は鮎川義介が病床に臥していたとき、寝床で紙に○を書いて中心にチョンを打つことを繰り返し続けた結果、まるでコンパスで書いたような真ん丸の円と中心点が書けたという話を子供たちに伝えた。

要するに努力をすることの大切さの話だった。

でも、父ほどの才能もなく努力もしなかった私の中では努力した結果が今の貧乏生活かよとひねた中学生だった。

 

また、1960年日米安保条約締結の反対運動が激化した当時、父が新聞を読みながら「寄らば大樹の陰よ」と言った言葉もなぜだか鮮明に覚えている。

そして、私の大学時代に全共闘運動や日米安保条約の自動延長に対する反対運動が起こったときも、この言葉を聞いた。

若い私は強いものにまかれる発想に強く反発した。

けれど、私自身長い人生を生きてきて、強いものにまかれざるを得ないことのほうが多いいのだということを体験してきた。

やはり、一番大事なことは人に迷惑をかけないことであり、自分を追い込まないこと、要は賢く生きることではないかと思う。

サルスベリの花が学校の近くに咲いていた



ロシアのウクライナ侵略は2年を過ぎた。

開戦から1年ぐらいは、ウクライナ強しの論調で自衛隊の元トップの方々も論陣を張っていたが、戦争が長引いてきた現在は、ウクライナがどのように停戦協議に持ち込めるかという解説ばかりだ。

確かに、人口も資源も経済力も武力もすべてに劣るウクライナがロシアに勝つ見込みはもはやありはしない。

戦端が開かれた短期間の間に、損をしてでも手打ちをすることだったのだという思いを深くした。

ある意味ロシアから離れる選択肢は少なくともプーチン時代にはなかったのだ。

そこのところをゼレンスキー大統領は読み違えたのだと思う。

残念ながら「寄らば大樹の陰」の重要性、重大性を認識しなければならなかったのだと父の言葉を回想しながらたどり着いたのだった。

 

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