大横綱白鵬親方の二階級降格、転落の予兆はあった でも、再び戻って強い弟子を育ててほしいと願う

清楚な水仙の花

元横綱白鵬、モンゴル出身の第69代横綱は生涯成績1187勝247敗(122場所)、

幕内成績は1093勝199敗、(103場所)優勝45回、

横綱通算勝ち星は899勝と見事な成績を残した。

連勝記録こそ横綱双葉山の69連勝に及ばなかったものの、第2位の63連勝に迫った。本当に無敵の横綱だった。

 

色白の男前の横綱、横綱在位記録も84場所、14年間横綱として君臨した大横綱だった。

その大横綱が!


去る2月23日、新聞を開いてびっくりした。

報道によれば、日本相撲協会は、23日(2月)、弟子の暴力行為を知りながら報告を怠ったなどとして宮城野親方(元横綱白鵬)を委員から最下位の年寄りへ2階級降格と減俸処分とした。

処分は7段階に分かれ、降格は解雇、引退(退職)勧告に次いで3番目に重い。

 

協会によると、幕内北青鵬が同部屋の2力士に対し、顔への平手打ちや、殺虫剤のガスに引火させ炎を体に近づけるなどの暴行を2022年7月ごろから1年以上していた。

宮城野親方はこうした行為を知りながら、事情確認や協会への報告をしなかった。‥‥理事会後、報道陣の取材に応じた宮城野親方は

「弟子を守ることができなかった、その責任を重く受け止めております」と謝罪したとあった。

そして、北青鵬は引退勧告相当の懲戒処分とみなされたが、理事会前に引退届が出され、受理され引退となった。

リュウキンカが花盛り




私はこのニュースを読んで、あの鳥取事件を思い出した。

2017年10月25日鳥取市内の飲食店で、巡業中のモンゴル出身力士が集まって飲食中の出来事だった。

集まっていたのは横綱白鵬、横綱日馬富士、鶴竜、照ノ富士、貴ノ岩、石浦(鳥取市出身)と地元の高校の教師など10人ほどいたという。

ちょうど、横綱白鵬が話をしているときに、貴ノ岩が携帯を見ていて、それを注意した日馬富士の言葉に、貴ノ岩が反応せず、日馬富士が暴力に及んだという。

事件は、10月29日に貴乃花親方と貴ノ岩が鳥取県警に被害届を提出したが、相撲協会に事件の報告がなく、事件が公表されたのは九州場所3日目11月14日のことだった。貴ノ岩は初日から、日馬富士はこの日から休場した。

九州場所は横綱白鵬が優勝し、土俵下の優勝インタビューの時、万歳三唱をした白鵬の姿を私もしっかりと覚えている。

日馬富士は11月29日、事件の責任をとって引退を表明した。

 

さて、この事件で日馬富士の暴力に止めに入ったのは、当時の関脇照ノ富士で、照ノ富士も数回殴られ、最後に白鵬が割って入って止めたのだということを知った。

 

この二つの事件から見て取れる類似性について考えてみた。

まず、白鵬の相撲だ。

相撲道は品格を重視するというけれど、といっても勝負の世界である。

勝つことへの執念と品格を調和させるという禅問答のような課題をモンゴル出身の白鵬に求めるのはなかなか難しいような気がする。

ただ、白鵬が大横綱であればあるほどことほど、関係者やファンの勝手な思い込みをしてしまう。

横綱としてふさわしい対応、品格など当然ではないかと思ってしまうのだ。

クリスマスローズも春を告げる



白鵬自身は相撲界で尊敬する人物として69連勝の双葉山や32回優勝の大鵬を挙げているが、自身の相撲はかち上げや張り手、猫だましなどおよそ横綱が使う戦法でない取り口を多用し、特に晩年は勝利第一主義の相撲道を歩んで批判されることも多く見られた。

そういうところは、日本人とは違う血脈を感じてしまうのだ。

 

日馬富士の暴行事件でも、とっさに止めに入る気持ちがあり行動を起こせば、日馬富士の引退劇ということにはならなかったのだろうが、白鵬という人は、じっくり観察をして、最上の手や技を探そうとするのだ。

だから、彼の解説は面白い。

対戦する力士の実力を測り、技のキレ味を測り、展開を予想して見せる解説には説得力がある。

 

ただ、現実のとっさの行動は、展開を予想する前に事件が進んでしまい、結局傍観してしまうことになってしまうのだ。

少なくとも、照ノ富士の見せた行動が正しかったのだろうが、照ノ富士はまだ関脇である。

激高した横綱を抑えることができなかった。

そして、ようやく展開が見えたところで、白鵬が止めに入ったのだろうと思った。

 

北青鵬のやりたい放題について、ロールスロイスで場所入りした時には親方白鵬から厳しく注意されたという記事を読んだが、ただ幕内力士に育った北青鵬を甘やかせてしまった結果というほかない。

当初、北青鵬のいじめ問題について知らなかっと言ってしまったことについて、とかく協会首脳陣からは良く思われていなかった白鵬の日頃の言動に対して、この際とばかりに、弟子たちへの管理監督責任を強く問われた結果なのだと思う。

ただ、相撲協会も、モンゴル出身力士をスカウトすることに執心して来たのだ。

 

相撲道についてどれほどの教育をして、土俵上の真剣勝負や真面目に生きることの大切さを説いてきたのかと思う。

 

実際は大相撲はこれまで多くの関取衆の事件やスキャンダルを生んできたのだ。

そして、ほとんどすべての親方や執行部の役員たちは、そうした同時代のスキャンダルから首の皮一枚で切り抜けて来たのではないのかと言っても過言ではないと思う。

もっと抜本的な組織体制の見直しや、相談体制の在り方など検討する時期に来ているのではないかと相撲を愛する老人は思いを深くするのだ。

毎度おなじみ 乙女椿



いずれにしても、モンゴルから来た大横綱白鵬には、尊敬する双葉山、大鵬のような心技体を習得し、慢心することのない本当に立派な親方として戻ってきてほしいと願うのだ。

 

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自民党存亡の危機 岸田首相の退路を断った決断は吉とでるか凶と出るか、政倫審を見た

リュウキンカが咲いた。春が近い。



今回の自民党の裏金問題は、これまでの様々な不祥事と比べて、自民党にとって最大の危機満載の不祥事だと思う。

衆議院政治倫理審査委員会(政倫審)の開催は決まったが、出席者、公開・非公開などをめぐって自民党内の姿勢が決まらず、結局、岸田首相が自ら出席して、テレビ中継などすべてオープンにして説明することを表明したことから、一挙に、予定されていた二階派事務総長武田良太元総務相、安倍派座長の塩谷立元文部科学相、安倍派の事務総長経験者の西村康稔前経済産業相、松野博一前官房長官、高木毅前国会対策委員長の5人の出席者もすぐに右に倣えとなった。

 

流石に自民党総裁、現職の首相の力は強いと思った。

もちろん、岸田首相は乾坤一擲、ここが力の見せ所と踏んでの登場だったに違いない。

このニュースの一報を聞いて、岸田さんは自分の出番をうかがっていたのだな、究極のタイミングだなとちょっと見直した。

従って、政倫審は期待しながら録画も準備して待った。

寒あやめ



2024年2月29日午後2時政倫審が開会した。

岸田首相は現職首相として史上初めての出席だという。

冒頭、岸田首相はいつものように、言葉を慎重に選びながら、政治への信頼を回復するため私自身先頭に立って前例や慣習にとらわれることなく改めるべきは改めていく。

先ずは今自浄作用が求められている自民党が抜本的な出直しをしていかなければなりませんと述べ、派閥パーティーの禁止や会計責任者が逮捕起訴等の事態になった場合、その団体の代表を務める議員も事案の内容に応じて処分できるようにするなど、3月17日の党大会に向けて党規など改定作業を進めると具体的な取り組みを説明した。

 

また、あるべき政治資金規正法の改正についても、一定の悪質な場合に会計責任者のみならず政治家本人も責任を負う法律改正を行うこと、政治団体に対する監査について対象範囲を拡大する法改正を行うことなどの取り組み強化を説明した。

ただ、今回の裏金問題については、一言も触れなかった。

 

あせび


野党の一番バッターは立憲民主党の野田元首相が立った。

野田元首相は、岸田総理自身の政治パーティーについて「在任中は、政治パーティーをやらないと明言できますか」と問うた。

岸田首相は「今後については、ご指摘等も踏まえて適切に判断します」といつもの一見誠実そうな答弁をした。

ところが野田元首相は重ねて「明確に言ってください。もう内閣総理大臣としては政治パーティをやらないと言ってください」と切り込んだ。

すると岸田首相は「内閣総理大臣として、パーティを開催すること、これは今は考えていません」と答弁したが、

野田元首相はさらに「今は考えていませんというのは、ほとぼりが冷めたらやるということじゃあないですか。在任中はやらないと明言してください」と手を緩めなかった。

とうとう岸田首相は「結果的に在任中にやることはないと考えている」と明言せざるを得ない状況に追い込まれたのだった。

 

2012年11月14日当時の民主党野田首相と自民党安倍総裁との党首討論の中で、必敗覚悟の解散宣言を思い出した。

私は野田さんの発言や生き方の中に真っ当な政治家を見る。

口先だけでない数少ない政治家だと評価している。

今回のこの二人の討論は、どう見ても岸田首相が位負けしていた。

ただ、今日の最大の目的である裏金問題とは遠く離れた討論となり、岸田首相の目論見通りという点では作戦勝ちとも言えた。

 

それから、自民党二階派事務総長の武田良太元総務相がたった。

彼は二階会長は派閥の象徴としての存在で、事務的事項については何ら関与していない。

私も経理関係には全く関与しておらず、すべて20年来の事務局長が担当していたという弁明に終始していた。

まったく軸をブラさずに同じことを繰り返す才能は確かに鍛え上げられている。

こうした人が政治の世界で生き残っていくのだろうと思った。

 

3月1日午前9時から西村康稔前経済産業相の説明が始まった。

清和会の会計については一切かかわっていない。

収支報告書は事務局長において行われてきたと知らぬ存ぜぬで通し続けていたが、政治にお金がかかることは子供でも知っている。

それなのに派閥の事務総長が会計については一切知らないと言い張るほうことのほうが疑念を抱かざるを得ないではないかと思ってしまった。

乙女椿



もともと、政治資金規正法には支出についてほぼ規制がなく、政治活動とはまったく関係のない使われ方(私的流用・不正蓄財)も多く見受けられるという。

そして、問題が起こると、私はまったく知らなかったといい、秘書が秘書がで逃げられるようになっているのだ。

そのことを官僚からレクチャーされていたのだと思わざるを得ない。

官僚を使うすべは一段も二段も旧民主党政権とは違い長けているのだ。

 

それから松野博一前官房長官、安倍派座長の塩谷立元文部科学相、高木毅前国会対策委員長が続いたが、同じ派閥の幹部の話は口裏合わせが徹底しており、裏金疑惑の解明などほど遠いと感じた。

思えば、東京地検特捜部の取り調べや事情聴取をくぐり抜けた、猛者ぞろいのみなさんに対して、野党のみなさんの追及などとてもとてもできないことだと感じる以外になかった。

そうした光景を見ながら、同じことを顔色一つ変えることなくしゃあしゃあと繰り返す政治家なんてまったく悪党ぞろいだなという感想しか私には浮かんでこなかった。

 

確かに前回、政権を託した旧民主党政権は、理想ばかりが高く、自民党政権下の事業など、無駄ばかりだと言わんばかりに事業仕分けを行ったが、結果は大山鳴動して鼠一匹だったし、沖縄辺野古基地移転問題にしても、沖縄県民を迷路に誘い込んでしまった。

また、官僚を徹底して追いやったがために、官僚を使いこなすことができずに自らが追い込まれる結果になった。

東日本大震災や原発事故の不運にも見舞われたが、結局は力不足が際立ち、政権交代可能な野党の地位から転落してしまったのだ。

ただ、安倍政権から引き続く、やりたい放題の自民党政権に今回はお灸をすえないといけないのではないかと私などは考える。

 

主権在民、その選択は国民の一票にあることを示さなければならない。

 

 

 

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株価が史上最高値を超えた 株は私の人生に適度な刺激と楽しみを与えてくれた 一寸先は闇の中だけれど、まだまだ関わっていきたい退職老人の生きがいの場所です 

一喜一憂の株価グラフ



2月22日、株価は史上最高値を更新した。

昨日の終値は39,098円68銭だった。

バブル時代の1889年12月29日の取引時間中の最高値3万8,957円44銭を上回った。

 

私の株式売買歴はカミさんの記録してきた婦人之友社「家計簿」によると1998年7月に295,000円の記録があった。

以来、25年7か月株式売買歴だ。

それから少しずつ買い続け、現役のころは投資額は2000万円を超えていたこともあった。

今回の日本株式市場最高値に至るまで私の株式歴はどのようなものだったのか検証してみた。

家計簿に記録が残っていた



1999年末には私の保有株価は100万円台に乗り、2000年末には200万円台になっていた。

元々、株に関心はあったが、生来のなまけもので株式について専門的な知識得るでなく常識もなく、何もせず、誰かに聞くでもなく、テレビ東京系の午前5時30分から始まるモーサテの株式コーナーを見る程度だった。

でも、毎日の取引に参加して、日々結果が出る、勝負模様が楽しみだった。

最初のころは親戚が勤めていた東電や三共などの株を買って、ささやかに楽しむ程度だった。

 

2000年6月、職場に出入りしていた証券会社の女性職員に勧められてソニー株を9990円で買った。

株を所有して売買を始めたのはこのころからだった。

ソニー株は少し値上がりしたところで、その女性職員に売りたいと伝えたが、彼女はもっと上がるから持ち続けるよう助言した。

しかしどっこい、そうは問屋が卸さなかった。

ソニー株は、2000年9月21日には12480円まで上昇したが、売り時を逸してその後はどんどん下落して行った。

 

2000年10月27日100万円台を割り込むと、以降値下がりを続け、リーマンショックの起こった2008年には1750円台まで下落した。

2011年には2000円台から1000円台に低迷し2012年には最安値772円をつけた。

まさに、これが株の本質、つまり何が起こるか誰にも分からないということなのだと思った。

そして、登場したのが安倍第二次政権だった。

アベノミクスを引っ提げて、正当な経済学からは異端の経済政策を推進した。

大きく利益が出たときはマグロを買ったり



アベノミクスによる経済政策の推進により、株は上昇基調に転じた。

2018年にはソニー株は高値6973円まで戻した。

私も18年前に9990円で購入したソニー株を後生大事に持ち続けていた。

ただ、信念があって持ち続けていたわけではない。

あまりにも変動する株価に処分する決断が付かなかっただけなのだった。

だが、2020年4月約20年間保有したソニー株を処分した。

コロナ禍の見通しに弱気になってしまったのだった。

2,3度買い戻しては売却を繰り返したが、マイナス分を取り戻すまでにはいかなかった。

たいていは目先の利益に目がくらんで、一定の利益が出ると利益確定に動いてしまうのだが、売り買いのタイミングは本当に難しい。

特に損切の売り時は腹をくくるしかないのだと思う。

そういうことを引きずる人は株には向かないと思う。

現在ソニーの株価は2月22日終値13310円だ。持ち続けていれば、損はしていないのだ。

株の難しさが分かるというものだ。

 

この40年近くの平々凡々たる素人株主の私は何度か痛い目にあっている。

ソニー以外で私の中で特に大きなものでは、日本航空の倒産、東日本大震災による原発事故の東電の株価暴落など痛い目にあったけれど、あまりへこたれずにやってきたのが長続きした理由だと思う。

一時は2000万以上投資し、保有株価は700万円台まで落下していたこともあったけれど、現在は1200万円台に回復した。

ウナギが食卓に登場することも



今回ブログを書くにあたって、株の売却益と配当による収益の2000年以降の20年間の結果を調べてみた。

マイナスは2011年の-1,878,649円だけだった。

東日本大震災の暴落の中で、長年保有してきた東電株の損切を余儀なくされた。

最高は2023年1,680,000円、年平均では723,822円の株式収益があり、1か月平均では60,318円の収益となっていた。

私としては月5万円の収益を目標に株取引を行っているので、まずまずの成績だと思う。

無職になった私はこの収益の2割が手数料として私の小遣い(毎月1万円)とは別にいただけることをカミさんとの間で約束しているので、私としてもゆとりのある生活ができている。

むろん年3~4回ある旅行や私物の購入などはこの中から払っている。

こうしたルールも慎重で欲張らない利益確保に貢献しているように思う。

 

私はアベノミクスを散々批判してきた。

しかし、こうして検証してみると、私的にはアベノミクスに助けられているのだから皮肉なものだ。

でも、アベノミクスによる過剰な国債発行のツケや日銀による株式市場への介入の問題点がいつ発火するのか、私の寿命が先か、それとも、子・孫の世代が苦しむのか、いずれにしても有頂天にはなれない。

 

ところで、私がこれまで割合地道に株をやってこられたのは、

  • 自分の生活の範囲(余裕資金)でやってきたこと
  • 一喜一憂せず、毎日の生きる楽しみにしていること
  • 自分と相性の良い株を5銘柄前後見つけたこと(値動きが循環的で安定している)
  • 倒産しない限り損失は出ない。長期投資を視野に粘ること
  • 欲をかかずに、一定額の収益確保で売却する。

 

これらが私の基本戦略です。

 

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ひとつ間違えば私の青春時代も道を違えていたかもしれない

今朝の朝焼け。当時はやった岡林信康の『友よ』の歌詞「夜明けは近い」を思い出す。



1974年~75年のビル爆破事件の桐島聡容疑者が名乗り出て、そして亡くなった。

当時から交番や駅、理髪店などいろんな所へ重要指名手配犯の顔写真の一覧表が貼ってあった。

桐島容疑者のぎょろ目と黒縁の眼鏡をかけた顔は一度見たら忘れられない写真だった。

しかし、50年間日本社会の片隅で逃げ延び、臆することなく居酒屋やスナックに出入りして、人気者であったという。

 

私の大学時代は1967年から始まった。

特別奨学金8000円で暮らす苦学生で、アルバイトで生活費の不足を補った。

当時の地方の大学では学生運動への参加は一般学生にとって普通のことだった。

週末には学生自治会が主催するデモ行進が普通に行われ、いつも50人前後の学生が市内をデモ行進していた。

私はアルバイトの合間に時々参加していた。

クラス討議は政治の問題が中心だった。

それぞれ勝手な意見を言い合って、それが終わると反戦歌やフォークを歌った。

プリムラジュリアン。こんな花色は初めて見る気がする。



10.8羽田闘争には学生自治会の呼びかけでクラスから代表を送ろうということになった。

出しゃばりの私は、ロハで東京へ行けると代表団の一員として気軽に上京した。

どのようないきさつで選ばれたのかは覚えていない。

1967年10月7日夜行列車で上京した。

午前7時頃東京駅に到着した。

東京駅についてから朝食はどうしたのか、どのように羽田に行ったのか全く覚えていないが、羽田空港に向かう道路上に到着して、続々とデモ隊が集まってくるのを座り込んで待ったことは覚えている。

 

そして、当時の国鉄の動労の青い菜っ葉服の一団がゲバ棒を担いでやってきて、ゲバ棒踊りをしながら気勢を挙げた。

身震いするような力強さが伝わってきた。

初めてゲバ棒がデモ隊に登場したと聞いた。

長い間、座り込みをして待っていた。

昨年行った銀山温泉の雪景色



突然、喚声が湧きおこり、デモ隊は前方に駆け出して行った。

と同時に、私の周りの者たちが、石を手にして投げ始めた。

私はその場で立ち尽くして、その光景を見物人のように眺めるだけだった。

ここから石を投げても、とても機動隊に届くようには思えなかった。

むしろ、デモ隊の誰かにあたるだろうと思ったのだ。

どのくらい、その場にいたのか覚えていない。

ただ、今日の総括集会があるからと付いて行ったのが慶応大学の三田校舎だった。

もう夕暮れになっていた。

一緒に上京した仲間たちはみんな黙りこんで帰った。

デモ隊に参加した学生の一人が亡くなっていた。



68年1月米空母エンタープライズの佐世保港入港をめぐって阻止闘争が活発化した。我々の大学からも2台のバスが夜出発した。

私はすでに、学生運動に冷めてしまっていたが、羽田に行った関係から見送りに行った。

学生運動はどんどん過激化して行く予兆を感じていた。

 

日大闘争、東大闘争から大学紛争は全国の大学に燎原の火のごとく広がって行った。

私の大学でも自衛隊や警察車両の大学菅理道路の通行をめぐって、紛争が起こり、この道路の通行を阻止するバリケードを築いたことから長い闘争が始まった。

そして、学長を含めた大学当局の管理者との団体交渉が繰りかえされ、各学部で無期限ストライキに突入した。

収穫間近のロマネスコ。食べるとおいしいがちょっと不穏なものを感じる



今になって振り返ってみると、大学に入学を許された学生が授業をボイコットしてストライキをするということが当然に許された社会では、どういう理論構成で行われたのか、今更ではあるが不思議に思う。

 

こうした状況の中で、私は学生食堂で午後5時から8時まで皿洗いの長期アルバイトをしていた。

そのアルバイト仲間にN君がいた。

柔和な表情で、ハンサムな青年だった。

大人しくて、挨拶以外の言葉は交わしたことはなかった。

6人くらいのアルバイト学生がいた。

私が一番の長期アルバイト学生だった。

「最近、N君の姿を見ないなあ」と話していての72年2月のある日の朝刊を開いてびっくりした。

N君が、連合赤軍が起こした山岳ベースリンチ殺人事件で殺されていたのだった。

どこで、どう連合赤軍につながったのかわからないが、確かにその人物は隣で一緒に働いていたN君だった。

 

そして、1970年代の日本の極左暴力集団である東アジア反日武装戦線のメンバーの一員として、桐島聡容疑者が引き起こした事件は75年2月28日間組本社ビル爆破事件など3件の爆破事件だった。

 

私はすでに社会人として就職していた。

あれから半世紀、桐島聡容疑者は死ぬ前に「最後は本名で迎えたい」と病院関係者に伝えたという。

何だ、この人生は、道を違えた人生を何度も悔やんだろうなと私は思った。

でも、あの当時ひとつ間違えば、抜き差しならぬところに入り込んで、引きずられるままに悔いの残る人生を歩んだかもしれないと思うのだった。

 

合掌

 

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魚河岸宮武の鮮魚料理に舌鼓(五爺が行く 食べ歩き、飲み歩き 京の冬の旅その3)

 

宮武 おつくり盛り合わせ




再び歩いて、臨済宗相国寺に行く。

今年の京の冬の旅非公開文化財特別公開を拝観するのだ。

法堂・方丈を一回りする。

法堂の天井に向かって手をたたくと天井の龍の図から鳴き声がするというので、皆さん並んで手をたたくが、私には鳴き声は聞こえなかった。

それから少し離れたところから見ていると、60前後の女性が熱心に手を打って耳をそばだて、「聞こえる、聞こえる」と叫んでいたので、もう一度やってみてと所望すると、再び手を打って「聞こえる」と叫んだ。

が、私には聞こえなかった。

相国寺

京の冬の旅は、なかなか商売上手な京都寺院の様々な趣向が観光客の心をくすぐる。

 

今宵は丹波口の「魚河岸宮武」での夕食。

夕食までまだ時間があるのでとりあえず、ホテルに戻る。

今日もホテルの傍のカラオケ店に情報収集。

昨日は2時間のカラオケで2400円と聞いて断念した。

それなら1時間で切り上げようと衆議一致して、再びBちゃんと私が行った。

受付嬢の話では1時間だったら1ドリンクが付いて1300円ということで即決した。

それから出発まで各自ホテルで一休み。

 

午後5時ロビーに再集合。

嵯峨野線で丹波口駅まで行き、徒歩で「魚河岸宮武」にて夕食。

幹事の話では宮武はランチでも行列ができるほどの人気店。

ディナーでも高評価。

京都の知り合いが勧めてくれたと期待が膨らんだ。

宮武 お品書き



入り口を入るとお店の大将がにこやかに迎えてくれた。

今夜は6000円のコース料理。

お刺身はよこわ、ほうぼう、金目鯛、活きたこ、職人の包丁さばきが見えるように生きのよい魚が光っていた。

真鯛の西京焼き、ホタテ貝柱ときのこのバター炒め、たらホイル蒸し、寒サバ竜田揚げ、天然ハマグリお吸い物、おまかせ寿司、デザートと満足、満足。

お酒が進んだ。

生ビール、日本酒2合と焼酎ロックを5~6杯頂いた。

私はすっかり平らげたが、MちゃんとHちゃんはお寿司を持ち帰った。

 

宮武の大将が玄関外まで送ってくれた。

帰り道はかねて計画したカラオケに寄って1時間ほど5爺は肩を組んで歌った。

今年も楽しいいとこ会男子部京都旅行が過ぎて行った。

 

火曜日 午前7時前に鴨川に向かって歩いた。

鴨川の手前に小さな川があった。

説明板があって、高瀬川とあった。

京都の豪商角倉了以が1600年代に作った人工運河で平底船の運送船が往来したとあった。

鴨川を渡り、橋の反対側に回って引き返すことにした。

ホテル方面に歩いて行くと反対側を歩いていた時には気が付かなかったが、今朝の朝食をとる朝ラー(朝ラーメンの略のよう)の第一旭を見つけた。

第一旭 入口



弟が作った行動表には、第一旭は朝6時から営業しており、朝から行列のできる人気店とあった。

弟に電話して、お店を見つけたこと第一旭には行列はなかったことを報告し、朝ラーの参加者への連絡と出発時刻を打ち合わせた。

ホテルに戻り、8時過ぎ再びフロント前に集合。

本家のMちゃんは昨日いただいてきた、お寿司を食べるということで不参加。

Bちゃんとはまたまた電話が通じなかったという。

また爆睡中だろうと無理に起こすことはしなかった。

Hちゃんは昨日お寿司を持って帰ったが、ラーメンのほうが食べたかったのだろう、ロビーの椅子に腰かけて待っていた。

 

第一旭はホテルから歩いて10分と掛からない。

待つこともなくすぐに入店できた。

待ち時間なしで入れるのは大変ラッキーのようだ。

数人の先客があり、我々の後にも次々と客が入ってきた。

店員は大きな声でしっかりと伝えながら、丁寧な接客態度だった。

私たちは3人ともラーメン普通890円を頼んだが、出てきて、ちょっとびっくり。

やや太麺、驚いたのはチャーシューが5~6枚はいっており、その上に九条ネギが一塊で乗っていた。

まるでチャーシューラーメンとネギラーメンを一緒に注文したような具合。

ボリュームが凄い。

ラーメン普通でこのボリューム



Hちゃんは麺を食べることをあきらめてチャーシューとネギとしなちくを食べ、お汁を平らげていた。

我々兄弟は完食したけれど、高齢者には、もう少し、軽くて、淡白、昔ながらの和風ラーメンが懐かしかったが、若い人には喜ばれるだろうと思った。

 

渉成園 大変立派なパンフレット


ホテルに戻りそれぞれ帰り支度を整えてから、10時前に5人そろって東本願寺別邸渉成園に歩いて行った。

渉成園までは10分ちょっと。

渉成園の庭を一回りしてから、京の冬の旅で特別公開をしている「園林堂」を見学する。

渉成園 園林堂 チケット


時間を決めて説明があり、説明を聞いた後、堂内を見学する。

説明者はこの文化財の価値を愛おしんでいる姿が見られたが、若干独りよがりな説明で、自分の説明に自分で笑ったりして満足感に浸っているようだった。

今回は棟方志功の襖絵が目玉だったが、暗すぎるのと、見せる展示の工夫が見られず、少しがっかりだった。

棟方志功襖絵 パンフレットより




11時前にホテルに戻りチェックアウトし、京都駅の地下街に向かった。

お昼は昨日見つけた「金沢うまいもん寿司京都ポルタ店」に行く。

開店は11時から、10分前に到着した。

すでに10人以上の行列ができていた。

 

多分中国系の人たちのように思った。

私は初めてだったが、弟は上野松坂屋で夫婦で20000円くらい食べたといい、高級回転ずしということだった。

お寿司を運ぶベルトコンベアーが二段になっていて、下のコンベアーはお店の方で計画して握ったお寿司が順々に運ばれてくるいつもの回転ずし。

上のコンベアーは客が特注したものが運ばれてくる。

こちらは超特急でビューとやってきて皿をとると台車がまたビューと戻っていくのだった。

こんなに食べた



値段は1貫~2貫で300円~700円くらいだった。

生きのいい新鮮なお寿司は美味しい。

やや小さめの握り、マグロ、鯛、イカ、エビ、カニ、たこ、貝柱等々手当たり次第に食べた。

もちろん、ビール、お酒、焼酎ロックといつもの通り。

楽しい旅も終わりに近づいた。地下街ポルタを歩きながら。



そして、次回の旅行プランの協議。

次回案は伊豆大島案や、鹿児島知覧特攻平和館や甑島(こしきじま)探訪、島根出雲を訪ねる旅等々、皆、勝手放題に提案して、この短時間ではまとまろうはずがない。

次回は東京組が幹事なので幹事一任ということになり、今回も楽しい旅の思い出ができあがった。

それにしても、この会はどのように終わっっていくのか、いつかはというよりも、もう先は長くはない。

別れの握手をしながら妙にさみしくなった。

 

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京都迎賓館など(五爺が行く 食べ歩き、飲み歩き、京の冬の旅その2)

迎賓館大広間(桐の間)


二日目、朝4時過ぎに目が覚めた。

昨日は昼から夜までよく飲んだけれど、あまり二日酔いは残っていない。

まず、バスに入って髭をそる。

ゆっくり温まって出たが、ウオーキングに行くにはまだ早いので、ベッドでテレビを見ながらうとうとする。

いつもは5時30分過ぎにはウオーキングに出るのだが、懐中電灯を持ってくるのを忘れたことと、近鉄でICOCAカードの訂正をしてもらうには7時くらいまで待った方がいいと思って7時前にウオーキングに出かけた。

 

京都駅の地下街、地下道がこんなに広かったのかと初めて知った。

近鉄は京都駅の南側にある。

駅員に事情を話すと、検査機の上にカードを置いて調べてくれた。

改札口での通過処理ができていないと言い、カードでの精算は時間がかかるのでと現金で180円を請求された。これで一件落着。

東本願寺



それから、ウオーキングの際、行くべきコースとして、弟に教えてもらった東本願寺に行く。

東本願寺は大きなお寺、これまではバスの車窓からたくさんの信者や観光客が出入りしている風景を見た記憶があった。

そのことを帰宅してカミさんに話すと、以前一緒に行ったことがあると言われた。

記憶はどんどん消し去られていて、カミさんの話が夢の中のことのように思われた。

カミさんは、明日行くことになっている東本願寺の別邸「渉成園」にもその時行ったと言っていた。

すべては記憶の彼方だ。

ホテルに8時前に帰着した。5000歩ほど歩いていた。

 

弟に電話すると今朝は8時30分ロビー集合と言った。

エレベータに乗って行く先の4階のボタンを押すが、点灯しない。

2階から最上階の10階まで押してみたが、エレベーターは動かないのだ。

どうなっているのこれ、と少し思案していたら10階が点灯してエレベーターは10階まで昇った。

扉が開くと下に降りるお客が待っていた。

このまま下に降りると意思表示して一緒に乗った。

そして4階のボタンを押したけれどまだ点灯しなかった。

同乗者が、カードキーをそこに当ててと教えてくれた。

4階のボタンが点灯した。私は同乗したお客さんに何度も頭を下げ、ありがとうと言った。

彼は微笑みながらうなずいてくれた。

優しい人だった。

 

8時30分にロビーに降りていくとエレベーターの前にHちゃんが立っていた。

このエレベーターの操作を知っているかと問うと「知っている」とうなずいた。

「ちょっとやっみて」と二人でエレベーターに乗ったが、想像した通りHちゃんは行く階のボタンを押すだけで、エレベーターは動かない。

「あーやっぱり知らなかったのだ」と納得した。

「ここにカードキーを当てるんだ」と教えて私はエレベーターを降りた。

それから五爺はモーニングを食べに、駅地下に向かった。

イノダコーヒ コーヒーではなく「コーヒ」らしい



地下街への階段を降りてすぐのところに、イノダコーヒーがあった。

ただ、五爺のモーニングとしては、1500円前後のモーニングは高すぎた。

皆、無言で通り過ぎて、少し探してみたが、どこも1000円を超していて、サンドイッチを分けて食べたらということになって再びイノダコーヒーの前に立った。

ミックスサンドを2つ、それぞれコーヒー、紅茶を頼んだ。

サンドイッチに皆あまり手を出さず、残った分は私とBちゃんが平らげた。

モーニング後地下鉄烏丸線で今出川へ。

それから徒歩で京都迎賓館に行く。

 

今年の幹事は三つ違いの私の弟。

雑誌の編集長をしているだけに、あれこれと綿密な計画を立てる。

迎賓館見学などなかなか思いつかないが、丹念に調べて、インターネットによる事前予約などマメに手続きをしてくれる。

迎賓館正面玄関



しかし、この迎賓館見学は、我々五爺の目を引き付けて余りあるものがあった。

もとより、平々凡々無芸大食、鯨飲とカラオケを愛する凡爺の面々がしっかり90分間を見学した。

特に、20~30名の見学者を引率するガイドツアーの女性職員の表情豊かで、やさしく行き届いた説明に私は魅了された。

もちろん女性職員の顔はマスクで覆われて、実相を拝見することはできなかったが、上品な顔立ちを連想させた。

やはり、宮内庁の正職員なのだろうか、昔のうまいバスガイドはアナウンサーと歌手や役者を併せ持った人がいたけれど、ここのガイドは、派手さは抑えて、優しく上品さを表出させていて大変好感を持ったのだった。

五爺、みんなの感想が一致していた。

 

ただ、90分は爺さんには少し長すぎた。

60分くらいが、勉強嫌いで怠け者の爺さん集団には適当だと思った。

 

今日のランチは幹事によれば町中華とのこと。

このワードは今、テレビ界で氾濫しているが、玉石混淆のたとえ通り、期待外れも多く、一見の客で行ってうまかったという店は少ない。

ということで、中途半端な期待を抱えながら迎賓館から歩いた。

お店の名前は「鳳舞楼」。

歩いて10分ほどだった。

幹事によれば、「鳳舞楼」は昼メニューと夜メニューがあって、昼メニューは少ない。中華で一般的な八宝菜や餃子や五目そばなどもない。

 

鳳舞楼


先ずはビールで乾杯。

本家のMちゃんは小さいグラスに半分ほどのビールをなめるようにして飲んでいた。

後期高齢者として、本家の頭領としてだいぶ自重している。

無理もない、飲み過ぎで、吐血、下血などで救急車で運ばれること2回などと体験談を何度か聞いた。

確かに救急車に乗ることも滅多にないのに、2回も運ばれたとはもう無理はできないとお酒の無理強いはやめた。

そんな話をしていたら、Bちゃんが割り込んできた。

自分も救急車を呼んだことがある。

鼻血が大量に出て止まらなくなって救急車を呼んだという。私は五爺の中でもっとも元気なこの男が救急車?と少し違和感を持って聞いていたところ、鼻血と聞いて「鼻血ブーだな」「救急車の乱用だな」と聞きながら、止まらない出血に不安そうに救急車を待つHちゃんの姿を想像して、内心笑いがこみあげていた。

救急車に乗せられて着いた先は耳鼻科医院だった由。

脱脂綿を大量に鼻に押し込められて鼻血は止まった。

救急車は帰って行った。

救急車が大きな病院に運ばなかったことが残念そうだった。

 

こんな話をそれぞれが次々と提供していたら時間はまたたくまに過ぎていく。

酢豚や麻婆豆腐、しゅうまい、名物からし蕎麦など食べ、私とBちゃんは、さらにビールや焼酎など杯を重ねた。

「鳳舞楼」は期待半ばの町中華だった。(続く)

 

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第11回いとこ会男子部 食べ歩き、飲み歩き 京の冬の旅(その1)

よしむら玄関


日曜日 今朝も午前5時30分過ぎにウオーキングに出発。

ただ、今日は京都旅行に行くのでいつもより20分くらい短いウオーキングで済ませた。戻って、食事をしてそれから趣味の日曜競馬の投票をした。

午前8時44分団地始発のバス停で待っていると、Nさん夫妻が愛犬と散歩して帰ってきた。

「どこに行くんですか」と問われ「京都で飲み会があるんですよ」とお酒を飲む格好をして見せた。

「嬉しそうですねえ」と笑って見送ってくれた。

 

9時15分過ぎ岡山駅到着。

新幹線のぞみ10号は9時44分発。

10分前に弟が到着。

博多から来るのぞみだから混んでいるかと思ったが、意外と空いていて二人並んで座れた。

10時45分京都着。

3人の従兄弟は東京から来る。

ホームから改札口に歩いて行くと、ちょうど東京からの到着ホームの階段を下りてくる3人組と出会った。

階段下で再会の握手をして、改札口を通って外に出た。

東寺蚤の市



これから3日間泊まるアパホテルに荷物を預けに行く。

それから京都駅地下街に戻り、少し早い昼食をとり、結団式をする。

場所は決めていなかったが、偶然見つけた、「へそ」というちょっと変な名前で、私は内心、食事をするところが「へそ」は嫌だなあと思ったが、みな、再会の乾杯に飢えているのか、「ここ、ここ」と何の異論もなくどんどん入って行った。

ただ、「へそ」は京都では有名な居酒屋チェーン店なのだと弟が教えてくれた。

 

早速、ビールとお酒のグラスを掲げて乾杯。

それからお刺身盛り合わせやおでん、焼き鳥などごく一般的なメニューを注文。

お味の方もまずくはないがアッと驚くこともない普段着の味だった。

皆元気で再会できた喜びに会話が弾んだ。

もちろんお酒が進んだ。

ビールが終わるとプラスチックのマスにグラスを立てて、若い女子店員が一升瓶からなみなみと注いでくれ、グラスから流れ落ちるお酒がマス一杯になるまで注ぐ。

その情景を5人の爺さんが様々にはやし立てながら、満面に満たすと拍手歓声が起こるという趣向だ。

それがこの再会を一層盛り立ててくれた。

 

少し飲み過ぎた。

生ビールを飲んだ後、日本酒マス2杯、焼酎ロック2杯飲んだような気がする。

13時過ぎに近鉄で東寺まで行く。

東寺の蚤の市は、毎月21日に開かれる。

皆、何を買うというあてはない。

縁日のように続く、たくさんの露店をのぞきながら歩いた。

私は20日遅れて今年のカレンダーを買った。

蚤の市で買ったカレンダー

嵯峨野の写真が入ったカレンダーは1本100円、これぞ蚤の市だと思った。

ここまでやってきて、私はHちゃんの歩きぶりがこれまでよりも一段よくなっていることに気が付いて、

「歩きっぷりがよくったねえ」と褒めたたえた。

Hちゃん曰く

「元々、薬嫌い、医者嫌いでね」と答えるところで、本家のMちゃんが言う

「こいつ足が、腰が痛むというから痛み止めを飲むように言うんだけど飲まないんだよ、薬を」といったところで、Hちゃんが

「そうなの、薬嫌いでね、でも風邪をひいてねバッファリンを飲んでいたら、足腰の痛みが軽くなっていることに気が付いてバッファリンを飲むようになって、今では杖も持たないで歩けるようになったのよ。Mちゃんには悪いけど」と付け加えた。

Mちゃんは大手製薬会社に勤めていたので、当然効果を知る薬をすすめたのだろう。

けれどHちゃんは偶然飲んだバッファリンでよくなっているので、そこは変えないよという意思表示で「悪いけど」と付け加えたのだろうと想像した。

かきのネギみそ焼き



4時前に一度ホテルに戻りチェックイン。

その前にホテルのすぐ近くにあったカラオケ店の様子を探索に私とBちゃんとで行く。あまり愛想のない女店員が対応してくれたが、2時間で一人2400円と聞いて年金生活者はあきらめた。

2400円は基本料金、お酒類を頼んでいたら3000円を超えるとBちゃんは判断したようだ。

ただ、Bちゃんは、対応した女店員を「ちょっと肉感的」と表現して気になっているようだった。

 

1時間ほど各自部屋で休息。

午後4時30分フロントの前に再集合する。

ところが、Bちゃんが下りてこない。

幹事の弟は何度電話しても電話に出ないという。

弟はしびれを切らして、フロントのホテルマンに事情を話しマスターキーで開けてもらった。

Bちゃんは内カギをかけていなかったから部屋に入れたのだが、もし内カギをかけていたら、カギを壊さないと入れなかったという。

部屋に入ってみたら、B君は爆睡中。

何度も身体を揺り動かしてやっと目が覚めたという。

 

しかし、このおおらかというか図々しい態度は我々一族では異端児と言ってもよい。我々はもっと繊細だと思うのだが。

とりあえず予定より少し遅れて、夕食会場の阪急烏丸線五条駅「蕎麦の実よしむら」に向かった。

京都駅阪急線の改札口で私のICOCAカードが引っかかった。

料金不足かと思いチャージをした後、通るとまた引っかかった。

駅員に説明すると検査してくれて、これは近鉄の改札口を通っていないので近鉄で検査してもらってくださいと言われた。

 

そういうこともあって、「よしむら」には5時30分頃到着した。

まず、乾杯はお店おすすめのたる酒という桝酒で乾杯。

ただ、枡酒の枡の木の香りがどうにも日本酒とマッチしなくて、私はノーサンキューで、一杯飲んで、焼酎のロックに切り替えた。

でも、ここよしむらの料理(刺身盛り合わせ、カキのネギみそ焼き、くも子のポン酢など)はどれも美味しくいただいた。

特に、最後にいただいたざるそばはしっかりとした蕎麦の噛み応えと、のどごしといい、蕎麦のほのかな香りと言い、大変美味しかった。

よしむらのざるそば

料理やお蕎麦が完全に管理されている。

逆にいえば、野趣に欠けるともいえるけれど、そんなことを言うのはおこがましく、言い過ぎになるとも思った。コストパフォーマンスからも年金生活者にとってありがたいお店だ。

今夜は久しぶりの再会である。

Bちゃんの部屋に集まり二次会を続けたが、10時前には解散したと後から知った。

 

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