私たちの少年時代の遊びと言えば、相撲と野球だった。
相撲は物心ついたころ、幼稚園に入る前後にはもう相撲狂で、幕内以上の力士のブロマイドを新聞紙に貼って眺めていた。
母が東京生まれ、東京育ちで大の相撲好きだったことも影響していたのだろう。
当時の横綱は千代の山、鏡里、吉葉山だった。
大関に三根山、大内山、松登がいたことを思い出す。
私は横綱吉葉山のファンだった。
色白の美男力士だった。
病気や怪我などで故障休場が多く、大関になって全勝優勝し、横綱に昇進したが、優勝はこの一回しかなく、4年間の横綱在位では休場も多く、一度も優勝できなかった。
ただ、4年間の兵役に就き、戦傷を負い、復員後大相撲に戻り、横綱にまで昇った吉葉山には、そのマスク、容姿などもあいまって、多くのファンがあった。
そして、もう一人、私の中に強く記憶に残っている力士と言えば鶴ヶ峰(元井筒親方)だ。
言わずと知れた寺尾の父親である。
眉目秀麗、端正な顔つきで、寺尾は父親似だ。
鶴ヶ峰はもろ差しの名手、もろ差し名人と謳われた。
もろ差しとは相手の左右の脇下に両腕手を入れてまわしを取り前に出る。
鶴ヶ峰はこの相撲で技能賞を10回も受賞している。
小学校4年生のころまで、鶴ヶ峰のもろ差しをまねた私の相撲は連戦連勝だった。
鶴ヶ峰も息子の寺尾、逆鉾も最高位は関脇まで上がっており、相撲一家と呼ぶにふさわしい活躍だった。
鶴ヶ峰の三男錣山親方(寺尾関)が12月17日亡くなった。
享年60歳。
相撲取りは寿命が短いとよく言われるが、それにしても短すぎる。
井筒3兄弟の次兄逆鉾関も58歳で亡くなり、長兄の鶴嶺山関も60歳で亡くなっている。
寿命が短いという遺伝子なのか、関取の寿命が普通人と比べて短いというのは、無理やり身体を大きくするための大食や激しい格闘技という職業病でもあるかもしれない。
この記事を書くにあたって、来歴などを読むと実母も43歳で亡くなっていると知った。典型的な短命な家系である。
しかし、振り返ってみると寺尾という力士は、何とすがすがしい、一直線の相撲取りであったことかと思う。
寺尾と同時代のライバルは小錦(10勝26敗)水戸泉(17勝17敗)、貴闘力(11勝23敗)安芸乃島(18勝22敗)栃之和歌(17勝21敗)となかなか勝ち越せてはいない。
技能賞1回、敢闘賞3回、殊勲賞3回受賞。
平成元年1月場所の横綱千代の国と西前頭筆頭寺尾の一戦をユーチューブで見返した。序盤、寺尾の回転の速いツッパリが効いて、千代の国は受け気味に取っていたが、流石、一瞬をついて千代の国の左手が寺尾の右上手をがっちりと掴んだ。
千代の国の右手は寺尾の左手をつかみつつ、そのまま右手を寺尾の頭に移動させ、頭を押さえながら前に出て少し強引に右上手投げを放った。
その瞬間に寺尾の右足が千代の国の左足首にかかり、千代の国は尻から土俵に落ちていた。
見事な勝利だった。
一方、私は引退後、時々NHKの大相撲解説をする錣山親方の寸鉄人を刺す辛口な解説に魅かれた。
最近では、弟子の阿炎の相撲に対して、
「下に落ちて、それからですよ。今のままでは(ダメですよ)」という意味のことをはっきり言い放ったことを覚えている。
名解説者だと好感を持った
さらば!土俵の鉄人寺尾関、錣山親方。
阿炎を育て上げるのを見たかった。 合掌
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