昔、「青春とはなんだ!」というテレビドラマが流行った。
青春時代の真っただ中にある若者に問いかける、このドラマは当時の若者に大変共感を与えた。
今や70を過ぎんとする高齢者の青春時代に大変受けたのだった。
団塊の世代、全共闘世代とも言われた現在の高齢者たちは、高齢者になっても言葉の持つ重みには敏感に反応するような気がする。
それにつけても安倍総理の「責任」という言葉の使いようの軽さには驚かされる。
というより安倍総理から発せられるこの言葉を耳にするたびに不快感が強くなる。
ウェブサイトで読んだ「文春オンライン」によると安倍総理は2012年12月の第2次政権発足から2019年11月までに「任命責任」という言葉だけに限っても国会の本会議・委員会で49回使われたと記していた。
任命した閣僚などの不祥事がそれほど多かったのであろう。
そして、その時点から半年過ぎ、コロナも検察庁法の改正の問題もあったからさらに増えていることは間違いないだろう。
もちろん責任は任命責任だけではない。
監督責任もあり、また当然、総理としての直接責任もあるし、説明責任もある。
言われてみればありとあらゆることの最終結果責任は総理にあるということであり、乱発も致し方ないのかなとも、このブログを書きながらそんな思いもふと浮かんだ。
でも一方で念仏を唱えるように毎回、「責任」を連呼、連発してその場を切り抜けるのが安倍首相の言葉の使い方なのだとも思う。
「責任は私にある」と明らかにのたまうのであるのなら、どういう責任をとるということを説明しなければならないのではないか問いたい。
これまでに安倍総理が責任の取り方を明確に発言したのは、森友学園問題が発覚したときの「私や妻が関与していたことになれば、首相も国会議員も辞める」と興奮のあまり口走った言葉だけだと思う。
しかし、この自身の言葉の重さに慌てたに違いない。
その後の展開は、官僚組織あげての文書の改竄や処分、口裏合わせの虚偽答弁で切り抜けたのだった。
これからは責任という言葉を使われるときには、どういう責任の取り方をするということも加えて、国民に約束してほしい。
責任の取り方は森友学園の時のように、首相も国会議員も辞める。
あるいは訴訟ではっきりさせる。
又あるいは報酬を返上する。
国民に信を問うなどいろいろあると思う。
責任の軽重によって責任の取り方も変わるのは当然だ。
でも安倍首相には是非とも責任という言葉を発するときには、己の身の処し方までも含めて発言していただきたい。
そうすれば、安倍さんが嘘つきとか疑惑のデパートなどといわれることはなくなるだろうと確信する。
と書きながら、27日付け朝日新聞によると今回の黒川検事長の処分問題では、5月22日衆院厚生労働委員会で首相は「検事総長が事情を考慮し、処分を行ったと承知している」と発言し、一方、森法務大臣は同じ日の記者会見の中で「法務省内、内閣と様々な協議を行った。この過程で私は色々な意見も申し上げたが、最終的には内閣で決定された」と述べたという。
この両者の食い違いの意味を27日朝日新聞一面は詳しく報じていた。
それによると「法務省は調査結果などを踏まえ、黒川氏の処分は懲戒処分に当たる戒告が相当と判断。検事長の懲戒処分は任命権を持つ内閣が行うため、官邸側と事前に処分を検討・調整する場で法務省幹部が戒告相当とする意見を伝えた。
調整の結果、最終的に法務省の内規で定める訓告処分に決まった。」よく読まないと読み間違えそうな文面だった。
要は、訓告処分は法務省・検察庁の権限でできるが、懲戒処分の戒告は内閣の権限なのだ。
そして、この判断に当たっては、人事院事務総長発(平成12年3月31日)「懲戒処分の指針について」で賭博について具体的に示されている。
「 (9)賭博
ア 賭博をした職員は、減給又は戒告とする
イ 常習として賭博をした職員は、停職とする。 」
と大変明確に示されているのだ。
当然法務省や検察庁はこの指針を知った上で、森大臣の当初の説明では「私もいろいろな意見を申し上げた。」と、これまでには見られない「私の主張」を述べたような発言をして、少し見直しかけたが、26日には、安倍首相の訓戒の説明通りに発言を簡単に修正してしまったのだ。
そして、全くお粗末な話だが、そもそも閣議決定の好きな安倍内閣は2006年第一次安倍内閣で「賭けマージャンは賭博罪」と閣議決定していたというのだ。
自ら決めたことを簡単に破ってしまう、勝手に解釈変更してしまう、閣議決定を黄門様の印籠のように使う安倍内閣には絶望するばかりだ。
責任をとるということはしっかり、わかりやすく説明し国民を納得させることではないでしょうか。
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