仕事から帰ってみると、家の中が何やら騒がしい。
カミさんと子どもたちが争っている。というより、子どもたちがカミさんをからかっている風情だ。
「騙されたんだって!本当にお人好しなんだから」
「そんなことないよ。必ず返しに行くって言ってたんだから」
「なら、どうしてこんな時間まで来ないんだよ。騙されたに決まってるよ。」
話を聞いてみると、こうだ。
自転車がパンクして困っている男子高校生に、カミさんが同情して自分の自転車を貸した。今朝のことだ。
まだ買って間もない、お気に入りの自転車で、ワイン色がかった赤い色がおしゃれな感じだった。
高校生は、定期テストなのに、自転車がパンクして遅刻しそうで困っていたそうだ。
カミさんは、自宅のある住宅団地から、坂を下って1キロほどのところにある、産直市場で野菜を買い込み帰る途中だった。
いきなりその自転車を貸してほしいと言われ面食らったが、息子と同じ高校の生徒だったことや、その少年の真剣さに押されて思わず承知してしまった。
交換した、少年の自転車に買った野菜を積み、パンクした自転車では乗るわけにもいかず、押して帰って来たのだそうだ。
そして、「必ず返しにいく」と言って、我が家のところ番地をメモしていった少年は、とっくに学校から帰っているはずだが、まだ返しに来ないという。
「とても、真面目そうな子だったから。」とかみさんは言うが、夜になっても返しに来ないというのは確かにおかしい。
「まあまあ、こんなこと言っていても仕方がないから、ご飯にしよう。自転車はまた買ってあげるよ」と言って食卓についたその時、チャイムがなった。
弾かれたように立ち上がり、玄関に向かうカミさん。
ドアを開けると果せるかな、母親に付き添われた少年が立っていた。
「遅くなってすみません。今朝は本当にありがとうございました。」
「私が仕事からなかなか帰れなかったもので。本当にすみません」と、詫びる母親。
軽トラックに赤い自転車を積み、お礼のカルピスの箱を提げていた。
これからパンクの修理に向かうという。そのための軽トラックの手配にも手間取ったようだ。
一件落着である。
カミさんは「簡単に人を疑っちゃダメよ」と勢いを取り戻した。
「お母さん、そのうちテレビ局が取材に来るんじゃない?」
と、子どもたちはまだ、母親をからかうのをやめない。
「テレビ?」とカミさん。
「あの時おばさんが自転車を貸してくれなかったら、今日の私はありません。
私が総理大臣になれたのもあなたのおかげです。」
「では、ゴタイメーン、なんて。」
そんな対面番組がその頃はやっていた。
「もうからかわないでよ。」と言いながら、カミさんは満更でもない様子だ。
あれから30年近く経った。
あの少年はどうしているだろう。年齢から言って社会の中心で活躍している頃だ。
私は直接会ったわけではないが、真面目そうな少年だったというし、見知らぬ主婦に自転車を貸してほしいと頼むなど、難局を切り開く度胸や、交渉力があるようだ。
きっと、立派にやっているに違いない。テレビは冗談にしても、一度会ってみたい気がする。
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