高校3年間担任をして頂いたM先生のことは70年を超える人生を経ても思い出される,私にとって恩師ともいえる先生だ。
高校に入学したとき転勤で来られた。
大阪外大出の英語教師だった。録音機を使った授業が田舎の高校生にとって新鮮だった。
この年(1963年)に暗殺されたケネディ大統領の就任演説「あなたの国があなたのために何ができるかを問わないで欲しい。あなたがあなたの国のために何ができるか、問うて欲しい。」
「Ask not what your country can do for you,ask what you can do for your country」を繰り返し聞いた。
先生はインドネシアで陸軍少年兵として従軍していたと言い、下宿に行くとギターを弾きながら田畑義夫の「かえり船」を歌ってくれた。
2年に進級するとき、先生は「3組は文系、4組は理系と分かれるがどちらを希望するのか」と聞いた。
文系志望の私は当然3組と答えたが、先生は4組に行くように勧めた。
先生が言ってくれるならと別に迷うことなく4組を選んだ。
進級すると4組の担任はM先生だった。
3年生の夏休みに入る前の暑い日曜日だった。
街でばったり先生に出くわしたことがあった。
先生から「今日は空いてるんか」と問われた。
頷くと「じゃあ、わしんところへ来んか。今日は嫁がおらんのよ」と誘われた。
付いて行くとクラスの成績表をつける手伝いをさせられた。
当時は個人情報も何もあったものではなかった。
もちろん個人情報という言葉も存在していたのかどうかわからない。
それでもこのことは長い間私の胸の内にしまっておいた。
手伝いが終わると先生はビールを抜いた。
ここだけの話だが、先生と一緒に飲んだ。
今では考えられない光景だ。
それから卒業式の前あたりだった。
生徒は半分くらいしか出席していなかった。
私立大学の入試で生徒も出たり入ったりの日常だった。
その中で、東京の私大の入試を終えた級友が、先生に受験の状況を報告していた。
先生が「まあ、雨が降っていたということは、雨降って地固まるということわざもあるから、いいことになるよ」と言って励ました。その諺をその時おぼえた。
いろいろあったけれど、私は受験に失敗して浪人生活となった。
大阪の豊中市のアパートで一人暮らしの生活をした。
7月の暑い日だった。
突然、先生が幼い息子を連れて訪ねてくれた。
私がどんな暮らしをしているか心配してくれたのだろうと思う。
広島県の片田舎からはるばるやってきてくれたのだった。
その夜は3人枕を並べて眠ったが、夜半まで延々と話していつの間にか眠ってしまった。
先生は私が大学を卒業し就職してから間もなく亡くなった。
大学時代に一度会ったきりで、以来合ったことはない、突然の別れだった。
振り返ると、あんなにも優しくしていただいた先生に何も応えていない悔いがいつも残っている。
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