その日、昼下がりの銀行はなんとなくざわついた雰囲気だった。
ドアを押したとたんに、私はその原因を知った。
三歳くらいの男の子を連れ、まだ首も座らないような赤ん坊を抱いた若い母親が書類を書いている。今日中に提出しなければならない書類なのだろうか、一生懸命に書いている。
しかし、こういうときに子供は得てしてぐずりがちなものだ。
少し眠くなったのもあるのだろう、男の子が母親に「抱っこして」とねだり始めた。
母親はすでに赤ん坊を抱いているし、片方の手では書類を書いているから、上の男の子を抱く余裕はない。
「お兄ちゃんいい子だから少しだけ待ってね。いい子しているとすぐに終わるから。」
男の子は「ダメ、早く抱っこ」と大泣きを始めた。
「お客様係「」の腕章をつけた男性行員が脇のドアから現れて、
「坊や、おじちゃんと待っていようね。ほら、おもちゃもあるよ、一緒に遊ぼう」とあやし始めたが、男の子は「ダメ、ママ抱っこ」と譲らない。
見かねた老婦人が、「坊やおばあちゃんが抱っこしてあげよう。お兄ちゃんなんだからいい子で待てるよね。」と近づいたが、男の子の泣き声は大きくなるばかりだ。
「いや、ママ、抱っこ抱っこ」と、銀行の待合室中に響き渡る。
居合わせた人たちは、気の毒に思い何とかしてあげたいが良い知恵がうかばない」。
そろそろうんざりした空気が漂い始めていた。
その時、一人の中年の女性が母親に近づき、二言三言話しかけた。
母親は一瞬躊躇した様子だったが、観念したのか、赤ん坊を女性に渡した。
そして、今まで赤ん坊を抱いていた手で、男の子を抱き上げた。
魔法にかかったかのように男の子は泣き止んだ。
赤ん坊は母親の手を離れても、すやすや眠ったままだ。
私はその女性の機転に感心した。
子育ての経験がそうさせたのだろう。
弟妹が生まれたときの、上の子の複雑な心理をわかっていたのだ。
赤ん坊に母親を取られたような、寂しい気持ちを。
程なく母親は書類の記入を終わり、女性から赤ん坊を受け取ると、何度もお礼を言い、「皆様お騒がせしてすみませんでした」と丁寧にお辞儀をして銀行を後にした。
男の子はちょっと抱っこしてもらったことで気が済んだのか、おとなしく母親に手をひかれて従って行った。
銀行中にホッとした空気が流れ、何事もなかったかのような静寂が戻った。
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